ら抜き言葉の効用
大関・千代大海関との交際が伝えられる川村ひかるさんが、スポンサーからビッグなチョコレートをプレゼントされて「大関なら食べれるかも知れない……」と、コメントを語っていた。
若者の『ら抜き言葉』がよく話題になっている。『食べられる』というべき所を『食べれる』というあれだ。(ATOKならこの段階で《ら抜き表現》と出る親切さ)
最初はこの若者の使い方がとても耳についたが、慣れるとただ楽なだけでなく、案外優れた効能も感じられるようになってきてしまった。
王様の耳はロバの耳さんのとこにはそのいい例が紹介されている。
『食べられる』と言うとき、『食べることが可能』なのか『食われちまう』のか『お食べになる』のか、明確に判る方が良いはずだ。
そうだよな。
『食べれる』なら「可能」だとすぐにわかるが、『食べられる』では「受け身」なのか、はたまた「尊敬」なのか、余分な判断を読んだ人に要求することになる。
そりゃあ、前後の文脈から判断すればわかる、というのが正しい言語学からの筋なのだろうが、元々言葉というのは他人(ひと)に何かを伝える手段なのだから、わかりにくいよりわかりやすいほうがいいに決まっていると思う。
また『ら抜き言葉』ではないが、もう一つの『行った』という時に「いった」のか「おこなった」のかわからない、というのにも共感を覚えた。
これもいつも、書くときに「すぐわかるかな」と疑問を感じながら使っていた言葉だ。
変換すると「行った」になるものを、わざわざ「な」を入れて「行なった」としていたのだが、最近はもうヤメにしている。
秋田県のシンボルマーク(カタカナの『ア』がモチーフ)
さて秋田県のある小学校の先生がいみじくも言っていた。
「秋田弁は元々ら抜き言葉。今に始まったことではないので、今さら子供に指導の必要もない」のだと。
例えば当地では、お婆ちゃんが孫に「まだ、まま食べられるが?」などとは聞かず「まだ、まま食べれるが?」と言うそうだ。(ままはご飯のことね)
(実際には「食えるが?」と言うほうが多いらしいが)
確かにもともと秋田は言葉がかなり特殊な所ではある。
昔秋田の親戚に行った時、「見ろ」「食べろ」とは言わずに「見れ」「食べれ」と言われたことを思い出す。
そして、地域の中には『ら抜き言葉』のほうが正しい日本語なのだと主張する所も多いのだという。
うーん、しかしこれには参った。
もしも秋田弁が標準語になったら、そりゃ勉強が難しいぞ!
ちなみに上の最後の2行を秋田弁変換機 Ver.1.01で試してみると、だいたいこんな感じになる。
うーん、んだどもこれには参ったス。
もしもあぎだ弁が標準語になったら、そりゃ勉強がムジガシぞ!
ひえ~☆
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