四百年前のノミの音(1)【伊豆海岸放置の場合】
伊豆・築城石探索のきっかけは、この「ぼなき石」からだった。
赤沢の廃ループ橋を探索に行った時に見たもので、旧下田街道(135号線)の大川地区に残されている。
「残されて」というのは、江戸城築城のために切り出したものの、江戸まで運ばれることなく、結局この地に置かれたままになってしまっているからだ。
碑文によれば、「ぼなき」というのは「暮泣き」と書き、急な山から石を切り出すという作業に、人夫がつらくて毎夕泣いたからこの名が付いたという。
石の横を見ると、何やら紋様のあるのがわかる。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
これは「二つ雁」というもので、安芸国・広島藩の大名・福島正則の家紋なんだそうだ。
つまり、これは安芸(あき)の石工が切り出した石。
つらくて毎夕泣いたのでは、夜もさぞ長かったろう。
だから「安芸の夜長」と言うのか。
一方こちらは熱海・上多賀にある「千人石」。
国道からは目立たないが、135号線沿いの公園の一角にある。
やはり江戸城築城のため切り出した石で、千人もの人足で引っ張らなければ動かせなかったためこの名が付けられたという。
しかし船に積む際、海中に落としたということで放置され、後世引き上げられここに保存されているものだ。
実際クレーンもレールもない時代、船に積むまでの作業はたいへんなものだったろう。
これも伊豆多賀にある、通称「多賀石」。
同じく135号線沿いの、こちらはコンビニ駐車場の脇に保存されている。
この石には刻印でなく、「羽柴右近」と大名の名前が彫り込まれているのが特徴だ。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
羽柴右近は信濃川中島藩主、のち美作(現在の岡山県)津山藩の初代藩主になった大名だ。
さらに伊豆半島を下った城ヶ崎近く富戸海岸には、岸に打ち棄てられたままの巨石がある。
石そのものに刻印はみられないが、この石には割るためのノミの跡が鮮明に残っているのが道路からも確認できる。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
このように古来、伊豆は江戸築城石の供給所だった。
しかしいま伊豆でこうして見られるのは、みな放棄されたもの。
途中で割れてしまったケースもあるが、いったん落としたりすると損傷がなくとも打ち棄てられた。
なぜなら、縁起が悪いから。
当時はこれだけでお家断絶の立派な理由になったという。
(続く)
(2)【修善寺石丁場の場合】はこちら。
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コメント
江戸城の城壁の石が伊豆から切り出されたものとは知っていたのですが、運べなかったものが残されているとは知りませんでした。興味深いです。
ぼなき石という名の通り、これだけの石を運び出すのは大変だったでしょうね。
船も沈まなかったのでしょうか。
投稿: ぶんぶん | 2011.04.27 07:15
ぶんぶんさん
おはようございます。
この話はまだ続くのですが、実際伊豆の山の中には切り出し途中で放棄された石が膨大にあるんです。
到底、ここから下ろせないだろう、というような険しい山の中に。
ぼなき石のように、ちゃんと道のある所まで運び出せたら、もう容易だと思うのですが。
ただ晩年、福島正則はお家取り潰しに遭っているので、そのためこの石が放棄され、夜ごと泣いているという話も。
投稿: ピーちゃんの身元引受人 | 2011.04.27 07:29