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2011年6月

トトロ、ついに捕獲さる

6月某日、ついにトトロが捕獲されたことがわかった。
かつてその愛らしさから全国でもてはやされたトトロだが、近年はその人気も低迷。
養父である宮崎駿氏によれば、最近のグッズ販売の落ち込みを悲観し、いつのまにか所在不明となっていたという。

Totoro

その後全国を当てもなく放浪していたとされるトトロに、浜松市の某住宅地に佇んでいるとの目撃情報。
発見者は、「隣にいた」と証言。
最後は地元幼稚園のトトロ大好き園児らにより取り囲まれ、観念したとのこと。

二重に縄打たれ、電柱に繋がれたトトロは、これまでの長い逃亡生活に思いを馳せてか、目も虚ろ。
このため収容先の浜北警察署生活安全課では、身元確認まで仮にウツロと呼んでいるとのこと。

なお逃亡中のやつれからか手配書の特徴とは細部に於いて異なる部分もみられるため、現在同署はジブリ美術館に身元確認中という。

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路チューはモーナいと言ってくれ

菅内閣から、なんとあの蓮舫大臣が弾き出されちゃったね。
直接には細野豪志首相補佐官を大臣に抜擢したからなんだけど、これは復興法案を通した一方で「大臣は14人以内」(特例で17人)と定めた内閣法をほったらかしていたからだ。
大臣ポストが足りなくなってしまったからね。
大臣より議員減らせばいいのに。

それにしても、これで菅内閣には一人の女性大臣もいなくなったことになる。
当初は千葉景子法務大臣や岡崎トミ子国家公安委員長がいたけれど、いずれも更迭。
自分で指名しておきながら更迭というのは、結局総理自身に人を見る眼がなかったということなんじゃないの。

だいたい、一人も女性がいない内閣なんてあったっけ。
鳩山内閣なら福島瑞穂さん。
麻生内閣なら野田聖子さん、さらに福田、安倍、小泉、森、小渕、橋本、村山、羽田、細川内閣……
もう疲れたから挙げないけれど、およそ男だけの内閣なんて最近記憶にないぞ。

M_yamamotoしかも蓮舫大臣に代えて細野豪志補佐官?
一般国民の路駐(路上駐車)は厳しく取り締まる癖に、政治家の路チューはいいのか。
不満じゃ。
今後、こんなことはモーナいと言ってくれ!

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アウトだろう>政府専用機

Seifu_senyouki日本の政府専用機って747ジャンボ機を改装したものだけど、全く同じ仕様のものが2機あるんだよね。
1機は予備ということになるけれど、だからといって日本に控えてる訳ではなくて、運行の際は必ず同時に2機飛ばす。(正確には1機は30分遅れ)

2機飛ばすのは、万一の事故やトラブルのことを考えてのことだけど、アメリカ大統領じゃあるまいし、日本の政府でそこまでの必要あるか?
どうせ日本の総理なんて1年ごとに使い捨て。
代わりなんていくらでもいるんだし、2機も飛ばす必要なくない?

お隣の韓国なんて政府専用機は持ってない。
必要な時はチャーター機だ。
それどころじゃない、ポルトガルのコエリョ新首相なんて、先日EU首脳会議のためベルギーに飛んだ時にはファーストクラスやめてエコノミークラスにしたそうだ。
というのも、ポルトガルは多額の財政赤字に苦しんでいるので、節約の姿勢を表すためだってさ。
日本だって多額の財政赤字は同じなのに、こっちは平気でジャンボ機2機も使ってる。
もちろん世界トップクラスの体制になる。

蓮舫大臣、これは仕分けの対象にならんのか?
1番である理由は?
2番じゃ駄目なんでしょうか?

セーフじゃないじゃん。
アウトだよ>政府専用機

とはいえ、エコノミーで隣の席が総理だったら、それも迷惑だけど。

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小笠原・世界遺産で浮かれてる?>日本

このところうれしいニュースがない中、今日新聞やテレビで大々的に報じられたのが「小笠原諸島、世界自然遺産に決定」のニュース。
たしかにいいニュース。
でも、ほんとにいいことばかり?

これで「観光産業が栄える」なんて地元小笠原町の村長さんは喜んでいるけれど、それは甘いんじゃない。
今回指定されたのは「自然遺産」としてだ。
ユネスコから自然遺産に指定されたなら、次はその保護にどれだけの責任が科せられるのか。
これで気軽に観光客を呼べるなんて思っているんだとしたら、完全に期待外れになるだろう。

Abu_simbelそもそも世界遺産て?
知られているようにそのきっかけはエジプトのヌビア遺跡(アブシンベル)だ。
1960年代、かのナセル大統領がナイル川流域にアスワン・ハイダムの建設計画を発表した時、このダムが完成するとヌビア遺跡が水没する危機が懸念されたんだね。
そこでこれを受け『ユネスコ』がヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始、世界に援助を求めたのだ。
その結果、世界60か国もの技術・経済援助によりアブシンベル神殿がみごと解体・保存された。

その時、日本は何をした?
何にもしてない。
知らん顔。

いま日本でエジプト考古学の第一人者とされる吉村作治さんだけど、最初にエジプトに行ったのは1966年のこと。
そんな状態だったから、日本人がエジプトに行って「研究したい」なんて言っても、当局から全然相手にされなかったことは吉村さん自身が自伝に書いている。

いまかつての文部省の役人そして自民党は、どんな顔してこのニュースを受け止めているのか興味深い。

註:日本が世界遺産条約を批准したのは先進国では最後の1992年。
実に世界で125番目の締約国だ (~_~;;

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太鼓の響き、白旗神社

『白旗神社』は北杜市大泉の静かな林の中に鎮座する。
身曾岐神社よりも先になる。

Shirahata_01
由緒ある神社ということだが、しかしその境内には拝殿もまた本殿も、建物など何もない。
周囲に家もない。
あるのは一つの鳥居と、その奥に位置するこの巨石の上の多層塔が2基並ぶだけ。

言い伝えによれば、この地方を治めた逸見四郎有義がこの塔の下に『白旗』を埋めたことからこの名前があるのだという。
確かに逸見四郎は甲斐源氏の武将ということで、白旗は源氏の旗印だ。
でも大泉村誌によれば「奈良朝初期の建立」と記されているので、そうなら時代はさらに400年ほども遡ることになる。


Shirahata_02
多層塔は自然石を巧みに組み合わせたもので、石座(いわくら)という巨石の上に積み上げてある。
こうした造りの塔は、全国でもかなり珍しい存在らしい。
山梨だってこれまで何回も地震に見舞われているけれど、それでもこうしてちゃんと崩れず立っているのはすごいかも。

「旗を埋めた」という言い伝えを裏付けるように、地下は空洞になっていて周りを力強く踏むと太鼓を叩いたような音がすると書いてあった。

もちろん試してみた。
音は……
しなかった。
Harisenbon_m2


ただ、足が痛かった。

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高速に隠された滝

中央道の廃道からの帰り、上野原で大きな滝に遭遇した。
落差30mはあるだろうか、かなりのスケールだ。
みごとでしょ。
ところがこれだけの滝なのに、地図にも名前が載っていない。

Tsurukawa_01
(マウスを写真の上に乗せると、カメラを引いた全体の画像が現れます)

鉄骨の橋梁? コンクリートの橋脚?
そう、つまりここは高速道路の下。
道路公団(現NEXCO東日本)によって作り替えられた人工の滝なんだね。
残念。


Tsurukawa_03
周囲を別の角度から見ると、こんな感じ。
落差もあり、コンクリートで固めなければそれなりに趣のある滝だったんだろうけどね。
高速道路のせい?
惜しい滝でありました。

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新聞一面に「廃道」とは

廃道なんて所詮は日陰モノで、限られた一部のマニアだけが好むもの。
まさかその廃道が一流紙の一面を飾るなんて思いもよらなかった。

6月20日付け○売新聞。
この写真を見て欲しい。

         

Chuo_old_00
記事は千円高速がついに最終日を迎えたというものでこれはその写真の一部。
場所は中央道談合坂SA付近で、19日(日)の夕方撮影されたもの。
右はガラガラの下り線。
一方、最後の行楽を終えたマイカーで大渋滞しているのが左の上り線になる。

ここで見て欲しいのは、さらにその左上部。
ヤケに幅広い道路と、これに並行する2車線の道路が見えるだろう。
これ、実は高速道路が廃道となった跡。
つまり、昔の中央道なのだ。


(C)Google Map
Chuo_old_04
これはこの辺りをGoogleの航空写真で見たもの。
左右に走るのが現在の高速・中央道。
左端が談合坂SA(サービスエリア)で、右方向が東京方面の上りになる。
下の変な模様はゴルフ場(オリムピックCC)だ。

中央道の上側に、これと並行するように二つのカーブを描く道が見える。
これが以前使われていた中央道の跡なんだね。
写真でわかるように、ここは二つのカーブが連続する線形だったのだが、事故多発区間であったため平成15年に一つの緩やかなカーブの新道に改良された。
鉄道(中央本線)の旧線跡はここまでたくさん見てきたけれど、高速道路の廃道がこうして鮮明に残っているのは珍しい。


Chuo_old_02
振り返ってその分岐部分をアップするとこんな感じ。
こんな風だから、注意深く走っていれば今でも左手の旧道の存在に気がつく。
(でもドライバーは脇見しちゃダメ)
在りし日の、片側3車線の道路とグリーンベルトの跡がよくわかる。
こんなに幅広い道路跡が、実に1.5キロの長きに渡って放置されたままなのだ。


Chuo_old_03
逆に東京方面の廃道部分を撮影したのがこれ。
この全体がもう使われなくなった高速道路の跡で、かつての6車線が窺われる。
左の2車線分は現役の県道として再利用されているが、通行するクルマはほとんどない。
右側の色あせた4車線分は放置されたままだ。
そのさらに右側の緑の向こう、かすかに見えているのが現在の中央道(8車線)ということになる。

しかし、これだけのスペースを無駄に放置しているのはいかにも勿体ない。
自動車ならジムカーナができるし、カートなら本格的なコースが造れる。
もしも住宅地に転用すれば……
ふむ、何戸できるのかわからん。(~_~;;

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首を長~くして待ってます

長野県下諏訪町、諏訪湖の近くに「万治の石仏」はある。
下諏訪町の指定文化財だ。


Sekibutsu_01
折りしも雨の後で、砥川は水音高くかなりの水量を下流へと押しやっていた。
正確には、諏訪大社春宮の脇を流れる砥川沿いの空き地の中。
神社の隣だが、境内ではない。


Sekibutsu_04
なんのために、こんな外れた所にあるかは不明。
噂では、諏訪・高島藩主が諏訪大社に奉納するため、石工がこの地にあった巨石にノミを入れたところ、そこから血が流れ出たんだとか。
ミステリアスな話だが、定かではない。

石仏には「万治三年」の刻銘があることから、万治の石仏と呼ばれている。
万治三年は江戸時代初期、今から約330年も前のことだ。


Sekibutsu_02
高さ2.7m、長さ4mの自然石(輝石安山岩)で出来ている。

素朴な造りで、親しみ深いとはいえ平凡な石仏だが、珍しいのは全部が一つの岩ではなく、別の石で彫られた高さ63cmの仏頭が載せられていること。
それを気に入ったらしく画家の岡本太郎さんや作家の新田次郎さんらが絶賛、実際に石碑も建てられている。


Sekibutsu_03
ところでこの石仏が、以前テレビで取り上げられたことがあるのを知っているだろうか。
というのも、「自然に石仏の首が伸びる」というもの。
実際、当時の写真を重ね合わせると、約4cmほども首が浮き上がっていたのがわかる。
(マウスを置くと画像が切り替わります)

最初に気づいた人は驚いただろうね。
な~んでか? 答えは下に。

       

続きを読む "首を長~くして待ってます"

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富士山にUFO

富士山にUFOを見た!

Fuji_ufo

ま、いーじゃん。

江口愛実さん創るよりは罪がない。

A_eguchi_2


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ゆずの香りの能舞台(身曾岐神社)

駒頭石探索の折り、小淵沢にある身曾岐(みそぎ)神社という所を訪ねた。
中央線の遺構とは関係ないが、なに、ゆずYuzu_sの香りに惹かれてやって来たのだ。

Misogi_01
八ヶ岳の南麓、約12万平米に及ぶ広大な敷地。
深い緑の中の広い境内に、壮大な神殿などが優雅に配置されている。
ずいぶん由緒ある感じだけれど、実は1985年(昭和60年)の建立というから、神社としてはさほど歴史は古いものではない。


Misogi_02
しかし世に神社は数あれど、これだけの立派な能舞台を持っている所はそうはあるまい。
立ち見席を除いても1500人収容というスケールだ。
(マウスを置くと画像が切り替わります)

清らかな御神水に優雅な姿を映す能舞台は、その正式名を「瑞祥宮」という。
右側の水面にせり出したのは「貴人席」だ。
貴人(きにん)とは、僕のような高貴な人のことね。
木造檜皮葺の入母屋造り、使用した材木はすべて本物の木曽ヒノキというぜいたくさ。
で、なぜ下が池か。
池の水は、そのものが音響を効果的に増幅するという作用を持っているんだそうだ。

この舞台では地元伝統の「八ヶ岳薪能」や、東儀秀樹氏の「雅楽演奏」などが盛大に演じられるのだけれど、他方、夏には毎年ゆずの二人によるライブが恒例になっていて、毎回多くの若者で賑わうんだとか。

でも、なぜゆず

Misogi_03
実はこの神社、ゆずの北川悠仁Y_kitagawa_sさんが登記上の名義人だから。
(自分で自分に奉納って……)

なんでも前身である井上神社(上野が本社)が破産して神社が競売に出されたところを、北川悠仁さんが母親のため静岡県内の銀行から約5億円を借入、敷地と建物を買い取ったんだそうだ。
すごいな。
だから実際にここは、北川悠仁さんのお母さんが教主の宗教法人『かむながらのみち』という所が運営している。

しかし5億円もゆーずーするなんて、ゆずはずいぶんと親孝行なんだね。
ウチの息子はまだかなあ。

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中央線遺構・須玉九差路交差点

日野春駅からさらに東進、須玉市までやって来た。
実はここにも旧中央線の痕跡があるのだ。

若神子新町という所の、とある交差点。
傍らには白い古ぼけた看板が立っている。
9saro_13
アップしてみると、「日本鉄道建設公団・国鉄清算事業本部」という所の管理地であることを示していた。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
つまり、ここが旧国鉄の用地だったことがわかる。
え、ここが国鉄の用地だったって?


9saro_11
看板左手の林の奥を見通してみると、一見普通の林道のように見えるが、実はこれが旧中央線の線路跡なのだ。
ゆるやかなカーブが往時の単線跡を想像させるだろう。
向こうから警笛が聞こえそうじゃない。


9saro_12
振り返ると、問題の交差点。
左右から交差する道路を越え、真っ直ぐ林の方向に続くのが長野方面への線路跡だ。
交差点の中央部分には、埋められた材木が並んでいるのがわかる。
これこそ、枕木を利用した古い踏切の痕跡なんだね。

実はここ、元々は七差路になる交差点&踏切だった。
そこに線路が取り払われた鉄道跡が加わったので、いま実に九差路になった訳。
9saro_map_3
僕が歩いて来たのはこの図の(1)の方向から。
清算事業本部の看板は赤丸の位置で、鉄道跡というのは緑の印の道になる。
動画を撮影した時は(5)の所の枝道を勘違いして九差路と数えていたが、見えていなかったのは(7)に比べて低く陰になっていた(8)の道だった。

コンデジで360度の交差点を撮ることは不可能だし伝わらないので、動画を見て欲しい。

それにしても、九差路ってすごくない?
もしもここに信号があったなら、青になるまでずいぶん待たされそう。
ましてや踏切まであったなら……
交通事故多発?

他にもっとすごい交差点(十差路以上)を知ってたら、教えて下され。

須玉・九差路の状況がよくわかる動画はこちら
                

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中央線遺構・日野春駅給水塔

中央線を東京方面に北杜市までやって来た。
ここら辺りまで降りて来ると、やっと平野。
言い換えれば、逆方向の下り線はここからひたすら登りになるということだ。

それを象徴するのが日野春駅構内に残された、この給水塔。
Hinoharu_01b
これは蒸気機関車に水を補給するため、かつて活躍した施設だった。

Ani_sl蒸気機関車現役時代に甲府で満タンに給水した筈の機関車だが、南アルプスを登り切るためには直前に再び水を満杯に補給する必要があったんだという。
その給水塔がこの地になった理由は、武田信玄がかつてここに用水を拓いたためそれを利用することでいつでも豊富な水が手に入れられたからだったそうだ。


Hinoharu_03b
巨大な給水塔は下半分がレンガ、上半分がコンクリートで出来ている。
もう仕事がなくなってしまった明治の給水塔だけど、今もこうして毎日中央線の往来を見守り続けているんだね。

それにしても釜無川堰堤といい、三分一湧水といい。
武田信玄の治水や、恐るべし。

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小海線大曲と忘れ去られた駒頭石(後編)

前編で教わった石へのアクセスというのは、

リゾナーレ小淵沢の駐車場から雑木林の中へと下って小川沿いに歩く

という簡単なもの。

リゾナーレ小淵沢は、名前の通りここ小淵沢の地に建てられた施設で、イタリアの著名建築家マリオ・ベリーニがデザインしたという世界に誇るリゾートだ。
さっそく行ってみると、巨大施設ゆえ駐車場なんて何か所もあってまず閉口した。
とりあえず一番それらしい位置の駐車場にクルマを駐めたものの、すぐ前がフロント。
一流リゾートには場違いの自分の格好に気づき、早々に林の中へと逃げ込んだ。
そのせいか、初っ鼻から誤った方向に突入。

Koumisen_02
だって雑木林にといったって、周り中すべて林なんだし。
加えてなまじ事前に地図でそれらしい川の位置を確かめたために、本来より下流へ向かってしまったのだ。
(下流のほうが太いので地図に表記される)
だいたい林の中なんて、目標がないしね。


Koumisen_06
石とは関係ないけれど、この幾何学的な紋様は途中林の中で遭遇した送電鉄塔を真下から見上げたところ。
普通、鉄塔ってたいてい柵があって真下には入れないものだけれど、ここはフリー。
ふむ、ずいぶんと美しい造形美を描いているんだね。
感電しそうだけれど、山梨は関電ではなく東電の管轄である。

それにしても、途中出会った地元の人に尋ねてみても誰も石の存在を知らず、分からず仕舞い。
駒頭石よ。歴史ある筈なのに、そんなに君はマイナーなのか?
下流側にはもう林もなくなり溜池になってしまったので、止むなく上流側へと探索地を変更した。

Koumisen_03
あった!
さらに辺りの林の中をさまよった挙げ句、やっと発見したこれが目的の「駒頭石」だ。
なるほど、デカイ。
立てかけたストックのサイズで、その大きさのほどがわかってもらえるだろうか。


Koumisen_04
何より特徴的なのが、頂部に穿たれたこの注目すべき石柱だ。
確かに「駒頭石」と彫ってあるのが確認できた。
しかし驚いたのは、横にあった「安政5年」の年号。
(マウスを置くと画像が切り替わります)

安政5年と言えば、将軍家茂(いえもち)Iemochiの時代じゃん。
今から160年も前の江戸幕府の頃で、とても昭和の小海線建設とは関係のない古さということになる。

石柱には「小淵沢公有林検塚起点」などと書いてあり、どうやらこの巨石はそれ故に江戸時代から計測の基準点にされていたらしい。
ずいぶん昔からここで確固たるポジションを築いていたんだな、君は。
いくら巨石とはいえ、昭和の技術なら動かすのは不可能じゃなかったろう。
それなのに、平成の時代までここに居続けた君は偉い。

この石がほんとうに小海線のルートを左右したのかはわからないけれど、それは石の意思とは関係ない。
これからは、もっと大切にされるといいね>駒頭石クン。
(終わり)

駒頭石の周囲がよくわかる動画はこちら
                

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小海線大曲と忘れ去られた駒頭石(前編)

信濃境からさらに進み、今度は小淵沢へ。
旧中央線跡の探索から離れてこれは現行路線。
優雅にカーブを描いた線路は、これからJR最高地点を走る小海線だ。

Koumisen_01
小淵沢駅からいったん西に向けて出発した小海線だが、いきなり大きく進路を変え、180度のカーブで東へと向きを取る。
通称、「大曲」(おおまがり)と呼ばれるもので、撮り鉄さんにとっては名所らしい。

Koumisen_05
これは撮影ポイントから振り返ってみたところ。
さらにカーブが続いているのがわかるだろう。
ちなみに上を走っているのは高速の中央道。
小淵沢インターを通過し、長野方向に向けたすぐ左側に位置し、車内からもこの大曲が確認できる。
(でもドライバーはよそ見しちゃダメ)

ところでなぜ小海線はこんなに大きなカーブをする必要があったのだろう?
わざわざ逆の方向に向かうなんて、疑問に思わざるを得ない。

調べてみると、これには様々な説があることがわかった。
(1)富士見駅始発説
(2)急傾斜原因説
(3)巨石障害説

小海線が計画された当時、鉄道大臣だった小川平吉が隣の富士見町出身だったため、当初計画された始発駅が富士見駅だったというのが(1)の説。
しかし、後に中央本線自体が大幅に変更されたように、富士見町へ通すにはいくつものトンネルや橋梁が必要で土木的な困難があり断念。
急きょ反対の向きの小淵沢発にしたため180度カーブになってしまったというものだ。

C)Google Map
Koumisen_map
一方この地図でわかるように、小淵沢駅から次の甲斐小泉駅に繋ぐなら、わざわざ反対に行かずとも最初から赤丸のように結べばいい。
このほうが距離も短く、工事量も少なくて済んだ筈だから。
ところがこれだと標高881mの小淵沢駅から1044mの甲斐小泉駅まで標高差163mを7.1kmの距離で登ることになり勾配が規定よりきつすぎたのだという。
これが(2)の説。
Koumisen_07
ここは、今のルートでも横から見るとこんなに急傾斜だものね。

そして最後、僕が興味を持ったのが(3)の巨石障害説だ。
地図で確認すると(2)の路線はほぼ小さな川筋を辿っていて、地形的に割りと納得のいくルート。
(現実に、今はこのルートとほぼ沿うように小淵沢から甲斐小泉までを結ぶ県道が通っている)

その巨石は、ちょうど小海線の計画ルートに位置していたのだという。
鉄道敷設を邪魔するその石は移動させるか破壊するかしなければならなかった。
渓谷沿い(というほどではないが)に立てられたこの計画では、石があっても計画した路線のほうを変更するというのは確かに無理があり現実的でない。

ところが石への作業に取り掛かろうとすると、必ず大雨が降ったり、怪我人が続出したりして、やがて工夫が嫌がって工事が進まなくなってしまったのだという。
ふむ、羽田空港の工事で起きた穴守稲荷神社の鳥居のタタリのようじゃないか。

そんな石ならこれはぜひとも実際に見てみたい。
ところがいろいろ調べても、石の正確な場所がわからない。
やっと近くの西洋民宿「魔法の笛」という所のご主人が数年前に石を訪ねたことがあることがわかり、連絡してアドバイスをいただいた。

さあ、それじゃその巨石を探しに行こう。
(後編)へと続く。

列車が走るよくわかる動画はこちら
             

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中央線遺構・旧線と放置車両

立場川橋からさらに隣(東京寄り)の信濃境駅まできた。
いったんなんとなく合流した(埋め立てられ、痕跡が残っていない)新旧中央線だが、ここで再び分岐する。

9saro_01
写真には写っていないが、県道の左側には現在の中央線が走っている。
で道路の右側、一見なんということのない林に見えるけれど、ケヤキの樹の右手にわずかな窪みが続いているのがわかるだろうか。
これもまた分岐した旧中央線の線路跡なのだ。


9saro_03
線路跡を歩いていくと、コンクリートが打たれた法面には鉄道のレールがそのまま補強材として打ち込まれているのがわかる。
勿体ない……。


9saro_02
さらに足元をみれば、明らかに枕木の物と目される切れ端が転がっている。
(これ、買うと高いんだよね)


9saro_04
そして突然現れたレールには、白く塗られた本物の電車が!
なんて……
これは中央線のものではなく、富士山麓電気鉄道(現在の富士急行)が昭和31年に投入した当時の新鋭車両『モハ3100型』という車両。
正確には『モハ3101』と『モハ3102』
(昭和31年製作の01号車と02号車だから)
(マウスを置くと画像が切り替わります)

これは日本車輛という所で作られた、全4両のうちの最初の2両。
(あとの2両は昭和46年に起きた脱線転覆死亡事故により毀損)
引退後、地元「とんねるの里」という店が喫茶用に静態保存したものだが、もう現在は使われることなく放置されたままになっている。
でも、「とんねるの里」って?


9saro_05
電車からさらに東京方面に向けて歩くと、その「とんねる」が姿を現した。
明治37年竣功、旧中央線のもので、銘板はないが「池生隧道」というらしい。
ここも昭和58年に新線に切り替えられ廃止となった。


9saro_06
これまた明治のトンネルらしい重厚な石造りが誇らしげだ。
坑門の脇には「47」と数字が書かれた木製プレートが掲げられている。
(マウスを置くと画像が切り替わります)

東京から数え、すでに47番目のトンネルという意味らしい。
中央線が難工事だったことを窺わせるね。

抜けて散る 中山道の 道険し

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取り残された中央線遺構・立場川橋(2)

 Google Map
Tachibagawa_map2
地図で確認してみると、旧立場川橋を渡った中央線はまたトンネルに入っている。
そこから再び地上に出た辺りは、現在富士見町のグランドになっているようだ。


Tachibagawa_11
クルマを廻し、平日のこととて閑散としたグランド周辺を探ると……
あった!
グランドの奥に、時代を感じさせる石造りのトンネル坑門が口を開けていた。
フェンスで塞がれたそれは、明治37年竣工、正式名称を「姥沢(うばさわ)隧道」という。


Tachibagawa_12
ネットの隙間から中を覗いてみると、やや左にカーブしたトンネルの富士見側出口がわずかに見える。
しかし前日襲来した台風2号の雨もあり、内部はかなりの出水状態だ。
ただ、入らなかったのは水のせいではなく、ここには陥没の心配があるためだ。
(マウスを置くと画像が切り替わります)

逆側からの写真では、中央部に大量の落石が山のようになっているのがわかるだろう。
トンネルの天井部が崩落してしまっているのだ。
しかもこれは1回のものでなく、これまで数回に渡って崩壊を繰り返しているとのこと。
しばしば地震が続出するいま、ここを抜けるリスクは賢人のすることではない。


Tachibagawa_13
そこでトンネル通過は断念、山の上を登って反対側に降りることにする。
ちなみにグランドの先は親水公園になっていて、園児たちの嬌声が絶えない。
そんな子どもたちの脇を山登り装備のオッサンが通り抜けるのは気が引けたが。

写真は反対側に抜け、トンネルの富士見側出口を見降ろしたところ。
傍らの古そうな杭も鉄道関連のものだろうか。


Tachibagawa_14
富士見側坑口からトンネル内部を少しだけ覗いてみた。
写真は振り返って撮影。

レールこそ外されたものの、出口部分には今も当時のままの枕木が整然と並んでいて、在りし日の郷愁を呼び起こされる。
側面には明治の仕事らしいしっかりとした重厚な石組みがみられる。
自分で言うのもなんだけど、趣きのある1枚が撮れた。(^.^)v


Tachibagawa_15
トンネルから橋までは掘り割りの真っ直ぐな道。
両側は往時のきれいな切り通しがそのまま続いている。
ここにもまだ両脇に電柱が残されているのがわかるね。


Tachibagawa_16
そして再び立った、「立場川橋梁」の端。
白いプレートの足場が右側になった。
先ほどとはちょうど反対側ということになる。

緑の若葉はさわやかだけれど、放置されたままの赤茶けた鉄骨がうら悲しい。
クライマックスで列車ごと鉄橋が崩壊する、映画「カサンドラクロス」のようじゃないか。
(観たことはないが (~_~;;

いやこの構図、この橋にも似ているかな。
それにしても77年間、長かったね。ご苦労さま。
(終わり)

トンネルから立場川橋まで歩いたよくわかる動画はこちら
                

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取り残された中央線遺構・立場川橋(1)

ここは長野県、JR中央線の富士見駅から東京寄りに500mほど寄った所。
右に走っているのが現在の中央本線の線路。
前方が東京方面ということになる。

Tachibagawa_00
左の砂利道を下った先、草むらの向こうに古い電柱が立っているのが見えるだろうか。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
こちらが昭和55年に廃止された、単線だった旧中央線の跡。
つまり、ここが新旧中央線の分岐点なのだ。


Tachibagawa_01
上の分岐点からさらに800mほど移動してきた。
カラフルな電車(E257あずさ?)が渡ろうとしているのは立場川。
コンクリート橋は立場川に架かる現在の中央本線・新立場川橋になる。
長さ339mに及ぶ巨大な鉄道橋で、完成は1980年(昭和55年)。
ところで見て欲しいのは、その奥に見える赤茶けた古い橋のほうだ。
新旧の中央線はすでにこれだけ離れてしまった。


Tachibagawa_02
橋の名前はこちらも「立場川橋」、旧中央線の橋だった。
アメリカンブリッジという会社が製作し、はるかペンシルバニアから海を渡ってきた。
長く中央本線の往来を支え続けたが、輸送力増強を目的に複線化が進み新線への切り替えに伴いお役ご免ということになった。
明治37年から通算77年間のお勤めだったことになる。


Tachibagawa_03
近づいてみると、橋脚の下部は頑丈な石造り。
いっそうこの橋の勇壮さが伝わってくる。
正式には「上路平行弦プラットトラス橋」といい、全長は64mという。
右手、道路を跨ぐ部分はガーダー橋になっている。
(よくガーター橋と書かれるけれど、girder(桁、梁の意味)だからガーダーが正しい。
ガーターは女性の靴下どめだ)


Tachibagawa_04
さっそくその堰堤の上に登ってみる。
雑草が生い茂っているが、まだ電柱や白く朽ちた枕木がそのまま残されているのがわかる。
前方、かすかに見えるのが目的の「旧立場川橋梁」だ。
なお背後には瀬沢トンネルが現存するが、いまは水路となり静かに第2の人生を送っている。


Tachibagawa_05
鉄橋の本体部分はすでにレールも枕木も取り外され、鉄骨が剥き出しになっている状態。
左脇には保線用に貼られたものだろう、白く見えるプレートの足場があるが、それすらも一部抜けてしまっているのが前方に見える。
危ない、危ない。
もちろん立ち入り禁止になっている。

線路跡は鉄橋のさらに向こうまでずっと続く。
よし、クルマに戻り、今度はその向こう側に行ってみよう。
(続く)

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「作戦失敗」の自衛隊

  大川小学校
Ookawa_school_2東日本大震災以来、一時は10万人という史上例を見ない規模で救出・復興作戦にあたった自衛隊だけれど、「作戦が失敗した」ことを現地の司令官が認めているそうだ。
これを明らかにしたのは陸上自衛隊東北方面総監部政策補佐官の須藤彰防衛事務官。

今回の大震災で、子供達がもっとも大きな被害を受けたのが宮城県石巻市の大川小学校だろう。
地震後の津波で全校児童108人の7割近い74人が死亡・行方不明になってしまった。
自衛隊はここで数次に渡る大捜索を行っているが、その時派遣された陸上自衛隊14旅団(香川県)の隊員は、同校の児童とみられる女児らから手紙を手渡されたという。

動物のイラストが描かれた便せんには
つなみのせいで、大川小学校のわたしのおともだちはみんなしんでしまいました。
じえいたいさんががんばってくれているので、わたしもがんばります

日本をたすけてください。いつもおうえんしています。
じえいたいさんありがとう

とあり、胸を詰まらせたそうだ。

須藤彰補佐官は、「自衛隊としてはそろそろここでの活動を終了しなくてはならないが、子どもたちから『行かないで』と縋られる……」と、胸を詰まらせた。
「作戦、失敗です」とも。

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だって宇宙人だもの

Hato菅総理への不信任決議が大騒動になっちゃったね。
可決の筈だったのに、一転大差で否決になったのは直前に行われた代議士会での鳩山前総理の発言からだ。

「政治家どうしの約束が守れないならペテン師だ」なんて言うけれど、それは国民相手なら約束破ってもいいっていうことね。

その後今度は小沢元代表にも「私を信じてください」だって。
そういえば以前、オバマ大統領にも「トラスト・ミー」なんて言ったっけ。
なんと政治家の言葉の軽いことよ。

それにしても鳩山前総理の「人間はウソをついてはいけない」には呆れた。
思わずテレビに「アンタが言うな!」って突っ込んでしまったい。
でも、鳩山さんならいいんだ。
だって宇宙人だもの……

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大仁金山に残るインクライン(後編)

ネコちゃんのアドバイスにより、正面攻略ではなく、鉱山左手横から登る作戦に変更した。
つまり、搦め手攻めというやつだ。
こちらからだとさらに急傾斜になるが、なに滝に比べればまだたやすい。

Ouhito_11
見上げるコンクリート塊は、まるで要塞のように挑戦する者を威圧する。
昔の城攻め、石垣攻めもこんなんだったんだろう。
それでも上から矢を射られたり、石を落とされたりしないだけ、幸せな挑戦ではある。


Ouhito_14
上がるとそこは見通しが効かないほど一面のヤブ。
加えて足元にはこんな「落とし穴」が待ち受けているので、探検するなら注意が必要だよ。
(誰が行くか)


Ouhito_12
さらに登り詰め、山の一番奥まで達するとこんな怪しい小屋が現れた。
いくら下から見上げても、この位置ではその存在すらわからない。
閉山からすでに40有余年、こんなのがまだ解体されずに残っていたんだな。
鉱山最上部にして最左端という位置関係、これがインクラインの動力小屋に違いない。


Ouhito_13
小屋に入り、怪しげな木製の足場から下を覗くとワイヤーが巻かれたままの大きなウィンチがあった。
さらに、手前にはワイヤーの角度をコントロールするプーリーもしっかりと残っている。
間違いない、ここがインクラインの動力部だった。
すごい!
たいていは朽ち果てているのだが、これだけ完全に残ったインクライン動力部を見るのは初めてだ。
(マウスを置くと画像が切り替わります)


Ouhito_15
探索を終え、再び住宅が見える鉱山の前端部分まで戻った。
ここは大仁鉱山の最上部。
下からはおよそ100mもの高さがある。
廃墟となった今も、鉱山はなお遙かな街を見下ろし続けていた。

鉱山の 廃墟となりて 薮枯らし

(終わり)


インクライン小屋の様子がよくわかる動画はこちら
                

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大仁金山に残るインクライン(前編)

伊豆の下田街道、大仁を走っていると、車内から巨大な鉱山跡を見ることができる。
昔からの名所で、正式名は「帝國産金興業・大仁鉱山」
かつては左の写真のような姿だったことを覚えている。

Ouhito_00   Ouhito_01
残念ながら、数年前に完全に建物は解体され、今では右の写真のようにコンクリートの土台だけになってしまった。
前から存在は知っていたけれど、こんなのどうせ最近の鉱山だと思っていた。
ところが調べたてみたら、大仁金山の発見は古く天正年間まで遡ることがわかった。
天正といえば、織田信長の時代。
ということは、武田金山と同時期……。
それなら行かなくては……


Ouhito_03
この金山が一番盛んだったのは慶長年間、江戸幕府金山奉行・大久保長安の時代だったそうだ。
しか昭和18年に金山整理令が発布されたことにより、金の採掘は中止に。
その後上記・帝國産金興業が鉱区を買い取り、昭和45年に閉山されるまでもっぱら珪酸鉱の採掘が行われたそうだ。
だからこうしていま残るのは、その当時の遺構ということになる。


Ouhito_02
一通り探索し、ふと脇の草やぶに目をやると……
うん?
レールが見える。
これって、もしかしてインクライン?
よし、探ってみよう。
(インクラインとは急傾斜をレールを使って資材を上げ下ろしするシステム。傾斜鉄道と訳される。
ちなみに語源はラテン語で、言葉としては
インク+ラインと思いがちだが、イン+クラインが正しい)

レールに沿って上り詰めるが、やがて急傾斜に行き場をなくし進退を極める。
止むを得ん、いったん「転戦」という名の撤退だ。


Ouhito_04b
下に降り、日なたぼっこをしていた地元のネコちゃんに聞いたところ、「こっちからは行けないよ」とのこと。
そうか、作戦変更だ。
(後編に続く)

下の景色がよくわかる動画はこちら
                

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