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2012年12月

横浜でオベリスクに出会った~

見よ
蒼天にそびえ立つ、このみごとなオベリスクを。

Obelisk_01

ただしこれはオベリスクの本家エジプトでなければ、武力で無理矢理、強奪 イヤ 移設されたローマでもパリでももちろんない。
場所は日本。
横浜・港北ニュータウン入り口の駅になる横浜市営地下鉄・中川という駅前。
その正体は「大きな街路灯」なんだって。

なんでもこの地区の開発テーマが『ネオロマンチック』ということで、このオベリスク風の街路灯の他にも、ドーム型の歩道橋(左奥に見える)やグリッドパターンの舗装、スズカケの樹の並木等でその雰囲気を醸し出しているんだそうだ。

オベリスク(Obelisk)は古代エジプト期にファラオ(王様ね)により製作されたもので、神殿などに立てられた記念碑の一種。
オベリスクの呼び方は後世のギリシャ人たちがオベリスコス(串)から名付けたものだ。

なおナイル川の氾濫で水害が多かったエジプトには、「溺れる者はファラオをも掴む」という有名な諺がある。
はは

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忘れ去られた転轍機

Tentetsuki
  青梅市にて


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おっぱい山(要害山)、登った

前に下から見上げたおっぱい山に登ってみた。

Yougaisan_01
大倉の集落を抜け、山の小さな神社の脇から登っていく。
通称はおっぱい山だけど、正式には『要害山・大倉砦』
ここからすぐ北には甲斐と武蔵の国境があり、戦国時代には戦略的に重要な最前線の砦だったらしい。


Yougaisan_02
初冬でかなり葉は落ちたように思えたが、意外と眺望が効くところがみつからない。
これは径の途中から、なんとか上野原方面を見通したところ。
山の写真鏡渡橋から撮影したのだから、こちらからも橋が見える筈。
かすかに見えた。
(マウスを置くと画像が切り替わります)


Yougaisan_04_2
滑りやすいジグザグの小径を20分ほど登り、やっと頂上直下に。
城砦というだけあって、そこには鮮明な枡形虎口が残されていた。
径が絞り込まれてY字になっているのが見えるだろうか。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
上の主郭土塁とセットになって上がって来る敵を狭め、攻撃しやすくしているんだね。
(直接攻め上がろうとする敵にとっては、正面に置かれた石も邪魔になる)


Yougaisan_05
要害山山頂・536m。
これがおっぱい山で最も肝心(?)な、頂上の杉の大木。
そう、下から『乳首』に見えるやつね。
樹の真下には『秋葉大権現』さまが祀られていた。
でも、祠全体が四方を厳重に板でカバーされてしまっている。


Yougaisan_06
隙間から覗いた秋葉さまの祠。
ご本尊は文字が書かれた板なのか?
(マウスを置くと画像が切り替わります)
その手前にはお供えの日本酒やお賽銭箱が見える。
しかしカバーのせいでお賽銭箱まで手が入らない。
なんだ、せっかくいつものように1万円札を入れようとしたのに。
残念だ。

山梨のおっぱいの木こちら

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ピンクのクラウン

Crown_pink_sトヨタの旗艦モデルであるクラウンがモデルチェンジしたね。
自信満々の豊田社長の傍らには、しかしピンクのクラウン。
ひえ~
時代は変わったんだね。
ピンクのクルマなんて、暴走族御用達の色なんだと思ってたぞ。

そういえばわれらの敵・白バイ(僕だけ?)もかつては赤バイだったとか。
導入された大正時代にはよく目立ったそうだけど、やがて街に赤いクルマがたくさん走るようになると目立たなくなり、当時まだ少なかった白色が採用されて白バイになったんだそうだ。

でも今じゃ白いクルマなんて当たり前だから、ピンクのクラウンがたくさん走らないうちに白バイもピンクにしよ。
つまり、ピンバイ……
なんか、ピンと来んな。

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日本の国連分担金、減額でも中国の倍だって

Un_flag3年に1度行われる国連負担金の見直しで、来年から3年間の日本の負担はこれまでの12.53%から10.83%に下がることになったそうだ。
これは喜ぶべきか、はたまた悲しむべきなのか……
分担率は各国の経済力(GNI:国民総所得)を基に算定するということだから、減額になったのはすなわちまた日本の経済力が低下したと国連に認められた訳だ。
悲しむべきなんだよね。

それでも日本はアメリカ(22%)に次ぐ、世界2番目なんだと。
あれ、中国が世界第2位の経済大国になったって威張ってたじゃん。
中国はどうしたのよ。
調べたら、中国は今回大幅増というけれど、3.19%から5.15%になっただけ。
(国連事務総長国の韓国なんて、わずか1.99%)

GNI:国民総所得なら、中国は日本の577兆ドルよりずっと多い663兆ドルなのにね。
国際貢献となると、途端にこの国は「ウチはまだ発展途上国」が得意の台詞だもの。
こんな国がなんで常任安全理事国として拒否権持っているんだか。
これだけ貢献させられて、日本はいまだに国連憲章では「敵国条項国」
まったく国連というのは不公平だ。

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変わったドアノブ

鉱業というのはとかく栄枯盛衰が激しいもの。

Nippara_house_03
こうしてうらびれて、廃墟となりつつある所がいくつもある。

Nippara_house_01
これは今もう使われていないある鉱山会社の寮。
下には専用の消火栓も見えるし、建設当時はハイカラなマンションだったんだろう。
でも、住み手を失った住居はさびれるばかり。

うん?なんか、ドアノブが変じゃない。(赤印)

Nippara_house_02
ほら、ドアノブがシャベルになっている。
これっていったい、廻しやすいのか、廻しにくいのか ?(゚_。)?(。_゚)?

「もしもし、これって使いやすいんですかあ?」
そんな……
シャベルが、喋るか。

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日原・稲村岩に獅子の顔を見た

奥多摩のさらに奥、日原部落の対岸にトンガリコーンのような岩峰がある。
サザンの唄じゃないけれど、その名を『稲村岩』という。

Inamura_01
なぜこの名前が付いたかというと、岩の形が「稲叢(いなぶら):稲を束ねた形」に似ていることから『いなぶら岩』。
それがやがて今の『稲村岩』に変化したものらしい。
ところでこの岩、草木が茂る秋までは見えないが、それらが枯れる初冬になると洞窟らしきものが確認できるのだ。
(真冬には雪でまた見えない)
(マウスを置くと画像が切り替わります)

Inamura_02
望遠でアップにしてみた。
ほら、これは間違いなく洞窟だよね。
行ってみたいけど、でもシチュエーションが悪すぎる。
そもそもルートなんかないし、穴の入口部なんてまるで絶壁だ。

でもいろいろ調べてみたら、やっぱり行った人がいるんだね。
早稲田大学の探検部だった。
そのリポートを読んだら、計2回の下見調査を経て、最終的に3人のパーティで決行。
一般路(頂上へは登れる径がある)からは、計180mもの下降ロープを設置したんだと。
そんなのとても素人が個人レベルで行ける所じゃないな。

探検の結果は、わずか5mで行き止まりの穴だったって。
なんだ、つまらん。
それでも飽かずに写真を眺めていたら、なんか獅子のような顔が浮かんできたし。
気持ち悪。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
洞窟はこの顔の耳の穴?
獅子の耳掃除じゃあるまいし、こんなとこ別に行きたくないもんね~☆

でも……
でも、羨ましい…… >探検部

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世界終焉の日

あれ

なんだ、まだ生きてるじゃん。

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トンネル入ったら分かれ道

トンネル入ったら分かれ道

Tunnel
さて、どっち行く?

可哀想だよ、ズボンのおなら
         右と左に泣き別れ (~_~;;

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杉木立に眠る、宇連分校(後編)

宇連分校(前編)から続く。

Ure_03
設楽町立・神田小学校宇連分校は昭和22年に教師1名、児童14人で開校。
児童数は少ないが最寄りの集落まで11kmもあって通うのに3時間近くも掛かるというのでは、分校設立は止むを得ないことだったろう。
分校最後の年となった昭和42年にはわずか3名しか児童はいなかったそうだ。
閉校後はいったん本校の神田小学校に併合されたが、その本校すら今はなくなった。


Ure_22
普通の人家程度の大きさでしかないが、この建物が学校の本校舎。
校庭だってないけれど、雨が降っても屋内運動すらできる空間は到底ない。


Ure_04
校舎の床は抜け、危うげな鴨居には気休めのつっかえ棒が立てられていた。
それでも壁に残された貼り紙が、わずかにここが学校だったことを思い起こさせる。
(マウスを置くと画像が切り替わります)


Ure_05
隣にはもうひと棟、小ぶりの建物が残っている。(右側)
住み込みで教鞭を執っていた先生の居住用だったそうだ。
だからこちらには竃(かまど)や押し入れなど、生活の跡が見られる。
軒下には一升瓶や洋酒の瓶が残されていたが、こんな淋しいとこ、酒でも呑まなきゃやってられないよね。
(マウスを置くと画像が切り替わります)


Ure_21
かつて分校で学んだ子供たちに思いを馳せ、帰路についた。
と、行きには気が付かなかった鳳来湖の大岩壁が見送ってくれた。
すごいスケールだな。
大月の岩殿山を思い出す。
そういえば、この辺りはロッククライミングの名所だったっけ。
またいつかね。


現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

・足柄上郡 高松分校はこちら
・明治の香り 曾呂尋常小学校はこちら
・天国に一番近い小学校はこちら
・佐倉の志津小学校青菅分校はこちら
・諏訪市の湖南小学校後山分校はこちら
・北杜市の江草小学校はこちら
・身延の五箇小中学校はこちら
・廃校になった高松分校はこちら
・学童像のある川合尋常小学校はこちら
・金次郎だけが残った上平山小学校はこちら
・春野町の川上小学校はこちら
・早川町の硯島小中学校室畑分校はこちら
・上州・譲原小学校はこちら
・白井市の平塚分校はこちら
・設楽町の八橋小学校はこちら
・設楽町の中設楽小学校はこちら
・東栄町の粟代小学校はこちら
・東栄町の小林小学校はこちら
・東栄町の月小学校はこちら
・設楽町の神田小学校はこちら
・設楽町の名倉中学校はこちら
・設楽町の清水分校はこちら
・北杜市の和田分校はこちら

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杉木立に眠る、宇連分校(前編)

設楽(したら)町は愛知県に属するが、その9割は山地という山深いところだ。
第二東名の終点「浜松いなさインター」からさらに三遠南信自動車道を北上していく。
それにしても「三遠南信」とはまた欲張った名前である。
「三」は三河(愛知県)、「遠」は遠江(静岡県)、そして「南信」は南信濃(長野県)と、わずかな距離なのに全部で3つもの県を股に掛けているのだから。

Ure_11
道はやがて宇連川(うれがわ)にある人造湖・鳳来湖のダムに差し掛かる。
干ばつ対策を主目的に作られた宇連ダムは高さ65m、重力式コンクリートダムとして1958年(昭和33年)西松建設が工期10年を経て完成させた。
折りから(訪問は11月初旬)周囲の樹々は早い紅葉を見せ始めていた。


Ure_12
しかし上流へ遡ると水は少なく、両岸に露岩が悲しい姿をさらすようになる。
通常期の半分程度の水位だろうか。
こんな山奥の、そのまた奥深くに目的の分校はあるという。


Ure_01
つづら折りの林道途中にクルマを止め、枝分かれした急な坂道をさらに登っていく。
小学生が通学するには厳しすぎる勾配だ。
すると目印になる建物が現れた。
物置小屋かって?
失礼な。
これでも「立派な」山荘なのだ。


Ure_01b
ほら、ちゃんと「宇連山荘」という札が掛けられている。
まるで登記簿のような詳細な札をみると、5人による共同持ち分の山荘らしい。
しかしこの小屋へ同時に5家族泊まるのは到底無理だ。


Ure_02
沢を挟んだ反対側の杉木立に目を凝らすと、その奥にうっすらと建物が見えた。
これが今回の目的、「設楽町立・神田小学校・宇連(うれ)分校」だ。
(1級~5級まである「へき地等級」で4級だったそうだからかなりのレベル)
さあ、行ってみよう。

・宇連分校跡(後編)に続く。

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オカマ犬?

Okamainu

あら
わたし、オス犬よぉ~ん☆

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龍が飛ぶ橋

人面岩水神滝のヒョングリなど、天竜川沿いの探索には国道152号線、通称秋葉街道を使う。
静岡の奥深く、これまで東名高速の袋井インター経由で結構アプローチに時間が掛かるエリアだった。
しかし第二東名の開通により、浜松北インターを使うとすぐに天竜二俣まで達することができ、大幅な時間短縮が可能になった。

Hiryu_01
その浜松北インターを降りるとすぐに真新しいバイパス。
そしてこれまた新しい橋を渡る。

うん?
照明塔に、なんかヒラヒラみたいのが付いてない?


Hiryu_04
アップにしてみた。
良くみれば、これは龍……だよね。


Hiryu_03
ほら、「飛龍大橋」
橋の名前が飛龍だから、照明塔も龍の装飾にされているんだ。

飛龍大橋は静岡県磐田市と浜松市浜北区とを結ぶ、天竜川に掛かる橋。
2012年に開通したばかりの新顔だ。
名前の由来は、水の流れが速く龍が天に昇っていくように見えるからだとか。

ちなみに、最寄りの駅はあのクロネコのいる「天竜二俣駅」だよ。
なに、駅前学して学習したのだ。

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由々しき事件が起きている

内憂外患とはよく言う言葉だが、いま日本がまさにその危機に見舞われている。


女子高生の靴下ばかり狙う窃盗犯

13日午後5時35分ごろ、千葉県市原市西国分寺台の住宅街で、歩いて帰宅途中だった近所の私立高校1年の女子生徒(16)が後ろから近づいた男に靴下を奪われた。
男は走って逃げ、生徒にけがはなかった。

市原署によると、市原市内で9月初旬以降、今回も含め女子高校生ばかり、計5人が靴下や脚を覆うスパッツを奪われた。
同一犯の可能性が高いとみて、窃盗容疑で捜査している。

Socks北朝鮮は周辺国を脅かすミサイル実験に成功したし、中国は渦中の尖閣にとうとう領空侵犯という暴挙に躍り出た。
こんな時にこそ、日本国内は一致団結して国益を守らなくてはならないのに、このニュースはなんだ。

女性の下着を強奪するというならともかく、靴下ってなによ。
下着ならヘンタイだろうけれど、靴下なら正常?
そんな訳ないだろ。

「犯人は靴下の魅力に屈した~☆」
世も末じゃ。

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『北』に欺かれた……って言われても

Missile意表を突いた北朝鮮のミサイルじゃなかった、人工衛星の打ち上げ。
北の国営放送が誇らしげに打ち上げ成功を報じるのに対し、「ここ1週間の打ち上げはない」なんて言っていた韓国のメディアは、夕刊で「北に欺かれた」との大見出しをつけて非難したそうだ。

でも、朝鮮半島は依然として休戦中。
つまりいまだに「戦争状態」。
敵を欺くのなんて、古来からの常套手段じゃないか。
詰まるところ、騙されたほうがお馬鹿だったということ。
北にしてみれば「してやったり!」ということなんだろう。

いみじくも、緊急避難を余儀なくされた沖縄の小学生が走りながら言っていた。
「なんだよ、解体したって言ってたじゃないか」
またここで、子供たちに「大人不信」を植え付けたことになる。
ごめんね >子供たち
世の中って、不誠実で不条理なものなんだよ。

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新潟の山奥にインカ神殿を見た(後編)

(前編)から続く。

とうとう目の前にした持倉鉱山跡。
でも対岸に渡る前に、まず自分のいる側(左岸)を探索。
実はこちら側にも林の中にいくつかの遺構が隠れているのだ。

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ただかなり崩壊が進んでいるうえに、足元のヤブがひどくて移動もままならない。
しつこいツルに足を取られるし、濡れた葉っぱは身体にまとわりつき、顔には蜘蛛の巣が。
まだ上方にも大きな遺構がみられるのだが……
退散。
それより対岸の「神殿」が気になるんだもんね。


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見よ! この偉容。
こんなのに山奥で遭遇したら、誰だって感動すること間違いなし。
「インカ神殿」と形容してしまうのにも納得してもらえるだろう。

さあ、いよいよそのインカ神殿、いや持倉鉱山跡に向かおう。
ただそのためには再びこの冷たい川を徒渉しなければならない。
川幅は広いのに思いの外、流れが速い。
Nagagutsu長靴は…… 再び浸水。
なに、二度目ともなればもう気にもならん。


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建物の前にある、柱のように積み上げられた石。

Mochikura_arch_s
昔の写真をみると、かつてこれはアーチ形状をしていてまるで神殿を護るジャンダルム(前衛)のようだった。
しかし自分が訪ねた時にはすでに崩れ落ち、この有り様。
残念、もっと早く来たかった。

でも、その崩れた残骸はいったいどこに行ったんだろう。
すべて持ち去られたとは考えにくい。
なぜならこの石は自然のものではなく通称「カラミン煉瓦」と呼ばれるもので、鉱山から出た亜鉛を主とした精錬滓(からみ)から作られたもの。
見た目とは異なり、一つだけでもとほうもなく重いものなのだ。


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ここが『世界遺産』といっても通用するだろう、この迫力。
持倉鉱山の歴史は古く、1700年(元禄時代)頃に発見され、当初は会津藩が主に銅を掘り出していたと伝えられる。
その後、銀や、蛍石、鉄鉱石などを産出したとされ、明治末から大正に掛けてが最盛期で大正7年には年間10万トン近くも産出したとの記録が残されている。


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いまここに残る建物は1913年(大正2年)に建てられたもので精錬所の事務所として建てられたものだったそうだ。
切り妻になっていた屋根部分はすでにないが、1階部分がすべてアーチ型窓なのに2階部分は対照的な四角形にデザインされるなどお洒落。
当時としてはさぞエレガントな建物だったろうけれど、しかしこんな山奥で粉塵にまみれた鉱夫以外の誰が見てくれたというのだろう……。


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こちらから見た先ほどの左岸(1・2枚目の写真)上部には、まるで要塞のような建物も確認できた。
記述によれば、こちらが精錬所だったらしい。
一番高い部分は大煙突の基部とのこと。
なお、実際の坑口はここよりさらに上流に位置するという。
また機会があれば、ぜひ坑口まで探索してみたいものだが。
(追記:前編で危惧した通り、1週間後一帯は降雪に見舞われた)

いくつかの小さな鉱山会社の手を経たあと最後の所有者は大手の三井金属鉱業になったが、1963年(昭和38年)、持倉鉱山は静かに長かったその役目を終えた。
かつて強大だった東洋の国の産業を牽引した鉱山の象徴的な建物は、いまほとんど人目につくことなく新潟の山奥で滅びようとしている。


現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

【鉱山跡リスト】
・玄倉鉱山跡はこちら
・渋沢鉱山跡はこちら
・坂口鉱山跡はこちら
・坂口鉱山跡パート2はこちら
・東沢鉱山跡はこちら
・日影沢鉱山跡はこちら
・麓金山跡はこちら
・玄倉鉱山跡パート2はこちら
・山田鉱山跡はこちら
・奥沢鉱山跡はこちら
・富栖鉱山跡はこちら
・須玉(増富)鉱山跡はこちら
・川尻鉱山跡はこちら
・梓山鉱山跡はこちら
・オイ沢鉱山跡はこちら
・大仁鉱山跡はこちら
・明神鉱山跡はこちら
・倉沢鉱山跡はこちら
・峰之沢鉱山跡はこちら
・湯ヶ島鉱山跡はこちら
・持越鉱山跡はこちら
・伊豆天城鉱山跡はこちら
・寝姿山鉱山跡はこちら
・矢筈山鉱山跡はこちら
・縄地鉱山跡はこちら

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新潟の山奥にインカ神殿を見た(前編)

西会津からさらに新潟県までやって来た。
越後山脈の懐深く、阿賀野川の支流・五十母川(いそもがわ)の渓流に沿って遡っている。
というのも、この川の上流にまるでインカ神殿のような鉱山廃墟があるというのだ。

探索したのは11月末だが、実はこのスケジュール、かなりピンポイント。
なんせこの一帯、春から秋に掛けヤマビルの群生地であるうえに、森には熊も出没するという。
夜は好きだがヒルは大嫌いだ。
クマさんとの遭遇もできれば避けたい。
それですっかり寒くなった初冬まで遅らせた訳だが、そうすると逆に今度は山は銀世界になってしまう心配もあってなかなか難しいのだ。
新潟の冬はヤバイ。
実際今から98年前の1914年(大正3年)、この鉱山一帯を雪崩が襲い、建物が倒壊6名もの死者を出したとの記録があるくらいだ。


Mochikura_01
前日の雨で轍はぬかるみ、ガレた落石がもう何回もフロアに体当たり攻撃を挑んできている。
中央奥に見えているのは最初の砂防堰堤。
荒れた林道はあの先まで続いている筈だが、オフロード車でもない自分のクルマではここら辺りが限度。
装備を固め、ここからはいよいよ歩きだ。


Mochikura_02
辿る林道跡は年月を経てすでに半ば崩れ落ちてしまっている。
氾濫した川に蹂躙され、道はかなりヤバイ状態の所が多い。
ここには橋脚の残骸らしきものがあるが下を覗けば半ば中に浮いてしまっている状態だ。

『日本鉱物誌』には、「磐越西線五十島駅の南方、約10kmの距離。
阿賀野川の支流五十母川の渓谷に沿ふて約8km、通称一本杉の貯鉱場に達する。
一本杉から山元に至る間は険阻な山道で登坂難渋である
」との記述がある。
まあね。


Mochikura_03
と、途中に「足元注意」の札が枝に掛けてあるのを見つけた。
裏返してみれば、地元の持倉鉱山保存会が吊したものらしい。
GPSがあるとはいえ、不案内の地の探索でこうした案内を見つけるととても心強い。
しかし、この札には重大な(?)インチキが隠されていることに気が付いた。


Mochikura_04b
なぜなら探索した日はほら、まだ11月の28日なんだもの。赤丸
なのに、札にはすでに「平成24年12月」と書いてある。
いかんいかん、これっていわゆる「先付け」というやつじゃん。
先付けなんて、小切手だったら振出日が来なくても金融機関は支払いを拒否出来ないんだぞ。


Mochikura_05
さらに登っていくと、目標になる2番目の巨大堰堤が現れた。
これを越えればまもなく目的地が見える筈。
左手の巻道から堰を越えると一転、水の流れは広くなった。
しかしここでわずかな踏み跡すら消滅した。
水流で道がえぐられてしまったのだ。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
(流れを渡ってから撮影)


Mochikura_06b
行き場をなくし、ついに最初の徒渉を余儀なくされる。
水は澄んでいるが、前日の雨で水量は多い。
もちろんこれは予想されたので長靴を用意してきているが、ただの水溜まりと違って川には流れの圧力があるので歩行が難しい。
そして長靴は…… 浸水。
水が入ってしまった長靴というのはこんなに気分悪いものなんだな。

しかし見よ。
対岸に目的の「神殿」がついにその荘厳な姿を現したではないか。
ほら、赤い丸の中。
(マウスを置くと画像が切り替わります)

持倉鉱山跡(後編)に続く。

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ボルチモアトラスの遺産「蟹沢橋梁」

柴崎橋のすぐ下流に、蟹沢橋梁(福島県西会津町)はある。

Kanisawa_01
JR磐越西線(当時・岩越線)が阿賀川の支流である蟹沢を越えるための鉄道橋で、全長87.5mの橋梁だ。
通称ボルチモア・トラスと呼ばれる、上路平行弦プラットトラス方式の橋で1914年(大正3年)に完成した。


Kanisawa_02
橋梁自体は1911年(明治44年)にアメリカンブリッジという会社が製作したもので、あの立場川橋と同様、はるばるペンシルバニアから海を渡ってきた。


Kanisawa_03

Kanisawa_04
この橋の特徴の一つは、ボルトではなく「ピン結合」というもの。
白いペンキは万一の緩みを確認しやすくするためのものだね。
周辺には桜の樹が多く、春には橋とのみごとなコントラストをみせるそうだ。

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佐久間ダムの水車ランナー

天竜川に建設された佐久間ダムは、日本の土木史において金字塔に称えられる大事業だった。

Dam_sakuma
1956年(昭和31年)の完成だからすでに56年も経つが、その雄姿はいま見ても威風堂々として頼もしい。

Suisha_sakuma
電源開発が運営する「佐久間電力館」に行くと、こんなタービンを目にすることができる。
これは1993年(平成5年)まで実際に使われていた発電用の水車ランナー。
日本の東芝製でフランシス型というもの。

みごとな造型美で家に飾ったら格好良さそうだけど、直径4m近く、重さ32トンもあるんだって。
ちょっと大きいかな……
今回は辞退しときます。

・佐久間ダム・天空の要塞こちら

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紅葉の秋葉湖・人面岩

ほぼ3年ぶりに秋葉湖を通った。
(先月半ばのことだけど)
で、またあの人面岩。

 拡大します
Jinmeniwa

目のあたりが隠れているのが残念だけど、紅葉&黄葉した湖の岩というのもなかなか乙なものじゃない。

前回の記事はこちら
現場で撮影したよくわかる動画はこちら

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崩壊橋梁「西会津・旧柴崎橋」左岸編

「西会津・旧柴崎橋」右岸編から続く。

旧柴崎橋右岸から現行の柴崎橋(上野尻ダム)を経て、橋の左岸へと迂回した。
 (C)Google
Google_map_shibazaki_2
左上が柴崎橋で、右下の赤いのが崩壊した旧柴崎橋だ。
その左手(左岸)崩落部分の探索になる。

航空写真をみてもこちら側は道路とは大きく離れているうえ、間には杉木立が密集していてまったく接続していた様子がない。
これまで橋のたもとまで探訪した記事もなければ、画像も見たことがない。
これは、橋への接続道路が想定されるような橋の延長上ではなかったということではないのか。

Shibazaki_25
そう考え、県道が曲がって線路(磐越西線)を渡る踏切あたりの搦め手から探索を開始した。
ヤブを掻き分け降りて行くと、その奥に意外にも大きな遺構が姿を現したではないか。
旧い頑健なコンクリート製のもので、その形状から橋脚に使われたものと思われた。
苔むしたその古さも、十分50年という歳月に合致する。


Shibazaki_24
さらに急傾斜を下り、橋の方向へと歩みを進めると、今度は明らかに人の手で造成されたとみられる通路らしき平坦地に遭遇した。(写真は振り返って撮影)
もしかして、これは線路跡なのか?
そう考えて足元を探ってみれば、そこには『工』のマークが刻まれた石柱が。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
間違いない。
ここは旧国鉄の用地だった。
この石柱は国鉄の用地界標で、マークは漢字の『工』を表したものだ。
明治初期に官営鉄道が開業した際、工部省が管轄したからなんだね。

となれば、現在崖上を走っている磐越西線が、かつてはここを走っていたことになる。
おそらくダムの建設で水位が上がって線路が水没するのを避けるため、現在の高い位置まで移設されたのだろう。
崩落橋につながる旧県道を探していたのだが、図らずも鉄道の旧路線にぶち当たってしまったことになる。
この線路を越えるため、県道には先に見つけた大仰なコンクリート橋脚が必要だった訳なんだな。
よし、探索の方向は間違っていない。


Shibazaki_21b
杉の落ち葉が厚く積もった急傾斜をさらに降りてみた。
足を取られる湿地帯をも抜けて推定される方向へ歩を進めると……
見えた!
杉の木立の間からついにヤツが姿を現したのだ。
たもとの直下にはコンクリートの残骸が土に埋もれている。
やはり接続道路は橋から直進の杉林方向ではなく、推定通りたもとですぐに曲がっていたのだろう。


Shibazaki_22
崩落した左岸側から見たヤツは、まるで恐竜が首をもたげているような異様な様相をみせていた。
上流(右手)側から押し寄せたたくさんの流木や枝は、いまもなおたくさん複雑に絡みついたまま。
左手から見上げれば、巨木がまさに串刺し状態になって反対側まで大きく突き出ている有り様で、余計に不気味さを助長している。
(マウスを置くと画像が切り替わります)


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そしてコンクリート部分になぜか青々と育った孤高の樹が一本。
橋の上ではさしたる栄養もなかろうに。
君は去年のあの大洪水にも負けず、ここに立ち続けていたんだね。
えらい。
でも……
もし、いままたあの高さまで水が来たら僕はどうなるのだ?
退散だ~☆

【追記】
この「西会津・旧柴崎橋」は1938年(昭和13年)に完成。
1958年(昭和33年)上野尻ダムが完成すると共に県道が新橋に変更されてその役目を終え、人工的に破壊され通行不能にされました。
旧橋を撤去する費用を節約する目的だったそうです。

現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

「西会津・旧柴崎橋」序幕編はこちら
「西会津・旧柴崎橋」右岸編にはこちら

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崩壊橋梁「西会津・旧柴崎橋」右岸編

「西会津・旧柴崎橋」序幕編から続く。

堰堤から東側の右岸に沿って道を上流方向へと遡る。
ここも昨年の洪水の際には土手部分が崩壊して長く通行止めになっていた所。
心配していたのだが、きれいに修復されていた。
福島県土木部に感謝。m(_._)m

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橋の接続部まで容易にたどり着いた。
現道からも見通せるし、橋のたもとまで苦労することなく達することができた。
ここから下流の現行・柴崎橋があるダム堰堤方向を見渡すとこんな感じ。


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橋右手の土手を降りて対岸まで橋を見通してみる。
こちら側からは、橋にさほど違和感は感じられない……。
ま、よく目を凝らさなければ、ね。


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再び土手を上り、橋の正面に立った。
コンクリート製の橋柱は左右とも健在だが銘板等は見当たらない。
(事前の調べで「柴崎橋」であることは確認済)
橋の真正面には大きな杉の樹が通せんぼをしていた。
昭和33年に廃止だから、もう今年で最大54年が経過。
大きく育ったその歳月が、橋がその役目を失ってから積み重ねた風雪の重みを物語っているかのようだ。
さあその橋へ、歩を進めよう。


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道路橋だったから、おそらく頑健な鉄板が渡されていたのだろうが、今はすべて取り払われてまさに鉄骨の骨組みしか残されていない。
下路式プラットトラスの構造は良くわかるが、まるで列車のための鉄橋のようだ。
足下を見れば、水位が下がったとはいえ深そうなエメラルド色の湖面が怪しく獲物に誘いをかける。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
おっと、誘いには乗らない。
朝がたは気温氷点下だったから、湖水もかなり冷たかろう。


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橋の前方をアップにしてみると、去年の大水害の時の巨大な流木が数多く鉄骨に乗ったままなのが見受けられた。
これまでネットに掲載された以前の写真には見られなかった図だ。
かつてこれを先端まで渡った強者がいたようだが、そんなことはしない。
なぜなら水害で流木や水の衝撃を受けただけでなく、経年変化で鉄骨自体にも腐食した穴ができるほど橋には痛みが確認できるからだ。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
賢者は愚かなことはしないのだ。

さて次はいよいよ崩落の場、橋の左岸(上流から見て左手)に行ってみよう。
(おそらく)ネット初公開。

現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

「西会津・旧柴崎橋」左岸編に続く。
「西会津・旧柴崎橋」序幕編はこちら

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