日原・倉沢廃村と大ヒノキ(後編)
日原・倉沢廃村と大ヒノキ(前編)から続く。
大ヒノキを後にし、村までほぼ水平な径を辿っていく。
公式にはすでに使われていない径なので、路肩がくずれるなどかなり傷んでしまっている。
はるか右下は倉沢の深い谷の筈だが、かすかな渓流の音だけでここから見通すことはできない。
やがて山側を見上げると、樹々の向こうに人工的な石垣の基礎が現れた。
ここが倉沢廃村の入口だ。
気持ちの良い朝日を浴びながら、すっかり苔むした石段を踏みしめ登っていく。
(マウスを置くと別方向の画像になります)
建物はすべて解体されたと聞いていたが、わずかに角材で組まれた土台の木組みが残っていた。
この村はこの奥で石灰石を採掘する奥多摩工業が建てたもので、最盛期には200人以上の鉱山従事者が住んでいたという。
建物は全部で25棟。
住居だけでなく共同浴場や売店、床屋、診療所まであったらしい。
生活道具がまだ取り残されている。
これは洗濯機だが、わかるだろうか、右手にあるWローラーの絞り。
そう、今ではまったく見られなくなった、手動の脱水装置だね。
全自動しか知らない今の若者には想像もつくまい。
そしてこれは理容用、つまり床屋さんの椅子。
座席部分などはすっかり朽ちているが、足元のペダルや大ぶりの肘掛けなんかが往時を思い起こさせる。
これまたすっかり苔に覆われているが、炊事場に並んだ竃(かまど)。
ここで作り出された食事が200人もの鉱夫の全3食を賄った。
(マウスを置くと別方向の画像になります)
コンクリートで囲まれた四角い部分は共同浴場のお風呂。
だから奥側にはカランが並んでいるのが見える。
(マウスを置くとアップします)
残念ながら押してももうお湯が出ることはない。
なおカランとは、オランダ語で『鶴』を意味するクラーン(KRAAN)から。
ほら鶴の首に…… 見えないか。
ちなみに一軒家になった管理職用の住宅にはそれぞれ専用の小さな湯船が設置されている。
急傾斜の村落を一番上まで登ると、まだ唯一解体されずにいたコンクリート製の小屋のようなものがあった。
配管が取り付けられていたし、最上部という位置からいってもこれは村落全体に給水する浄水槽の設備に違いない。
傾斜の上部から下部にある道路方向を見下ろしたところ。
今の日原街道が出来たのは昭和26年のこと。
それまでは牛車も通れない急峻な道しかなかったのでこんな山奥に社宅が作られた。
採掘した鉱石は背負子で背中に背負い、氷川(いまの奥多摩駅)まで一日何往復もして運ぶしかなかったそうだ。
しかし昭和40年代になって自動車道が整備されると、この村の存在価値が失われ、こうして廃村になったのだ。
探索を終え、同じように巨木が象徴の廃村でありながらここが追原とでは大きく異なることが感じられた。
それは、この村にはただ一つの墓もないということ。
それは、この村が仕事のためのもので、真の生活の場ではなかったということを意味するものだろう。
お疲れさまでした。
・君津市の追原廃村はこちら。
・設楽町の宇連分校はこちら。
・身延町の御弟子廃村はこちら。
・丹波山の高畑廃村はこちら。
・奥多摩町の峰廃村はこちら。
・甲州市の焼山廃村はこちら。
・千曲市の末地廃村はこちら。
・山梨の登尾廃村はこちら。
現場で撮影したよくわかる動画はこちら
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コメント
おはようございます
う~ん・・・、最盛期には200人以上の鉱山従事者が住んでいたと言っても、共同浴場や売店、床屋、診療所まで用意するのは会社としても相当な負担だったでしょうね。そこまでしても採算が合った、というくらい景気が良かった、と言うか、需要があったということでしょうか。
不動産屋の私からすれば、それにしても、まあ、原状回復には程遠い中途半端な片付け方で・・・(*^^)v
投稿: poohpapa | 2013.01.09 06:22
poohpapa さん
おはようございます。
そうですね200人のためにこれだけの設備を提供するのは不合理に思えますが、それだけ「娑婆」とはかけ離れた遠隔の地だったのでしょう。
また、それだけコストを掛けても採算が取れる時代背景だったんでしょうね。
日本がまだ強かった時代……
>不動産屋の私からすれば、それにしても、まあ、原状回復には程遠い中途半端な片付け方で・・・
その中途半端な片付け方のお陰で、数十年後に僕のようなお馬鹿探検隊が恩恵を被っているのであります。
(=^^=)
投稿: ピーちゃんの身元引受人 | 2013.01.09 07:11