世界に誇る大都会東京、そんな東京にも実は廃村がある。
その、奥多摩「峰集落」を訪ねてきた。
今は林道が延びているが、かつては鳩ノ巣駅から急峻な山道を標高約600mまで登っていた。
その林道ですら、この崖崩れで行き止まり。
(振り返って撮影)
その先も林道延伸のためか大量に伐採された杉の木が放置され、村への踏み跡すらままならない。
あるいは深謀の東京都のことだから、(歓迎されない)廃村へのアクセスを意図的に妨害しているつもりなのかも知れないが。
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緻密に植林された杉木立をそれでも縫ってさらに進んでいくと、彼方に何やら建物のようなものが見受けられた。
左手にある小さいのは『日天神社』と額が掛かったお社。
集落の象徴で、今でもかつての住人がお参りに訪れるようだ。
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ここに人々の営みが始まったのは今から約560年も前とのこと。
鎌倉末期から室町時代にかけて秩父地方から山越えをしてきた人たちで、主に炭焼きをして生計を立てていたらしい。
明治維新の頃には全7戸があり、「峰七軒」と呼ばれたという。
ほとんどの家屋はすでに完全に解体され、ただ一つ残っていたこの家もついに屋根の重さを支えきれず崩れてしまった。
昔の写真には内部に当時を彷彿とさせる生活道具や教科書などが写っていたが、今では見る術もない。
傍らにはピンクの子供靴。
この子も今は立派なお母さんになっているだろうか。
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井戸だったのか、苔むした石枠には急須と湯飲みが置かれていた。
下に見えるちょっと不気味な人形は、この集落の探訪記事では必ず見掛ける峰の象徴のような存在。
だが、実は後に外部から持ち込まれたもので、アイデアル社のギルグスという人形とのこと。
あの地下金庫に貼ってあった女の子の絵のようなものか。
さらに集落跡の奥まで足を伸ばすと……
ここにもあった、お墓。
お墓をみると、ここにかつてほんとうの暮らしがあったことがあらためて思い起こされる。
1972年(昭和47年)、峰集落最後の住民が山を降りた。
・君津市の追原廃村はこちら。
・設楽町の宇連分校はこちら。
・奥多摩町の倉沢廃村はこちら。
・身延町の御弟子廃村はこちら。
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・甲州市の焼山廃村はこちら。
・千曲市の末地廃村はこちら。
・山梨の登尾廃村はこちら。
現場で撮影したよくわかる動画はこちら
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