夢と消えた佐久間線遺構の旅(2)
夢と消えた佐久間線遺構の旅(1)より続く。
「阿蔵川橋梁」を渡った佐久間線の路線跡は再び高い堰堤となり、北に向かっていた。
これが天竜二俣のスタートから2番目となる「山王トンネル」の入口。
ここではフェンスではなく、黒いビニールシートで坑口が覆われていた。
でもそうなると中を覗きたくなるのが人情というもの。
しかし隙間から窺ってみたところ、少なくとも入口付近は何か再利用されている様子はない。
このトンネルは直線なので北側出口の隙間が彼方に小さく見えた。
傍らには立派な銘板が埋め込まれていて、このトンネルが1969年(昭和44年)竣工であることがわかる。
最初の白山トンネルが1974年(昭和49年)だったから、こちらのほうが3年も工事が早い。
(その差が「トンネルと「」ずい道」の違いになっている訳だ)
つまり、この佐久間線は南の方から順番に工事したのではなく、幾つものか所でバラバラに進められていたことがわかる。
「山王トンネル」の北側出口にやってきた。
こちら側はビニールではなく、鶯色のボードのようなもので塞がれている。
閉ざされた扉の下からは大量の水が流れ出ていて、ここに立つととても涼しい。
シイタケ栽培に使われているという噂も聞くが、残念ながらこちらから内部を窺い知ることはできなかった。
また何なんだろう、意味ありげに「赤」「白」「青」「緑」の四角いプレートが不規則に貼り付けられているのが印象に残った。
その先は一転して深い掘り割りになる。
横の壁には「1969-2」の文字。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
向こう側にあった銘板と同じく、竣工年月を表しているものだね。
再び今度は緑の堰堤になった。
堰堤だ、切り通しだ、と実に目まぐるしい。
この辺り、いかに起伏の多い地帯なのかがわかる。
その一画に、石の標柱が立っていた。
見ると「工引照標」と彫ってある。
「工」のマークは漢字の『工』で、明治初期に官営鉄道が開業した際、工部省が管轄したことから。
「引照標」というのは、地形の関係などで用地界標を定位置に設置できないときに設置される杭だとか。
事前の準備もそこそこにこの工事は始められたようだ。
さらに進むと堰堤は唐突に尽きた。
このコンクリート製の構造物はカルバート(径の短い溝渠)だが、手前の出っ張った形状は明らかに橋桁を載せる目的があったんだろう。
そう、この先(背後)は二俣川になる。
夢と消えた佐久間線遺構の旅(3)に続く。
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コメント
切り割りや堰堤やトンネルがこんなに綺麗な状態で
残っているのですか。
ここを遊歩道にしたら?と思うのは私くらいでしょうか。
鶯色のボードに貼ってある緑・赤・青・白の模様は
なんなのでしょうね?
投稿: いはち | 2013.11.15 10:30
いはちさん
おはようございます。
はい
堰堤やトンネルは綺麗な状態で残っているのですが、やはり一度も鉄道が通ったことがないというのが何か他の廃線跡とは違いますね。
中央線の立場川みたいに枕木やレール跡でもあれば……
投稿: ピーちゃんの身元引受人 | 2013.11.15 10:46