夢と消えた佐久間線遺構の旅(2)より続く。
堰堤カルバートの先、県道沿いには二俣川が流れていて、そこにもすでに橋脚だけが先行建設されている。
本来なら地元の夢を乗せて走る鉄道を支える筈だった橋脚。
今となってはもう河床に残された洪水時の障害物でしかない。
二俣川を渡った路線跡は県道362号線を越える。
そしてここからまた緑の堰堤が姿を現した。
浜松市が土地区画整理事業を展開する造成地の中をさらに進むと、途中に古びたコンクリート製のカルバート(径の短い溝渠)が一つ。
「大池暗渠」と言うそうだ。
プレートをみると、1970年(昭和45年)製。
設計者は「日本鉄道建設公団」になっている。
これでこの堰堤も鉄道由来のものであることが確認できる。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
「日本鉄道建設公団」いわゆる「鉄建」は、国鉄時代に鉄道建設事業を行っていた特殊法人だが、JRとなったいまもう存在しない。
こうした国鉄時代の「負の遺産」はその後、清算事業団(日本国有鉄道清算事業団)が管理するところとなっている。
ここと同じだね。
やがてまたトンネル。
ここには「船明(ふなぎら)トンネル」の銘板がある。1971年(昭和46年)竣工。
「船明」とはまた変わった地名だ。
なんでも天竜川が材木等運搬の流通路として使われていた時代、まだ夜が明けやらぬ頃に前出の月を出ると、朝日が昇り始めて船に日が射す頃にこの辺りに到着。
それで「船明」と言ったんだそうだ。
ちなみに船明湖の対岸は「日明」(ひやり)と言い、張り合っている。(?)
ここの坑口は鉄製フェンスで封鎖された上に、半透明の波板でくまなく負われていた。
そして傍らには「気象庁気象研究所 浜松市天竜総合事務所」の看板。
よく鉱山の坑道跡に行くと地震観測に使われていることが多いが、ここの地中では何をしているんだろう。
ネットで調べてもわからなかった。
今は天竜川沿いに国道が走っているが、明治・大正の頃はトンネル脇からこの山を街道が越えていた。
次は大きく迂回して、この「船明トンネル」北側出口に向かう。
驚くな。
そこには衝撃の出口が待っている!!
ほら。
この写真に「船明トンネル」の北側出口が映ってる。
対岸に渡って撮影したものだが、これではよくわからないよね。
なのでアップにしてみる。
望遠レンズで拡大すると、なんと国道(152号線)の直下にトンネルが口を開けているではないか。
見たところ、国道の路面からトンネルの天井までせいぜい数十センチ?
上の道路を走るクルマは真下がトンネルで空洞になっているなんて、まさか思いも及ばないことだろう。
こんな遠くからではあるけれど、この坑口は塞がれていないように感じられる。
行ってみよう。
夢と消えた佐久間線遺構の旅(4)に続く。
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