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伊豆下田に残る「震洋」基地

伊豆半島の南・下田の近くに手石の港はある。

Teishi_01
この辺りは海蝕洞窟が多い所だが、港の岸壁を越えると人工的に掘られた穴がいくつも目に入ってくる。
実はこれ、いずれも太平洋戦争当時に掘られた「震洋」の格納庫。

震洋は海軍が開発・使用した特殊武器で、ベニヤ板製の小型モーターボートに炸薬を搭載、搭乗員が操縦して上陸船団に体当たり攻撃するという哀しき特攻兵器だ。


Teishi_02
そのため床部分は平らに整地されている。
また床面には係留のための鉄製金具Anchorも残されている。
ここ手石には「第51震洋隊」が置かれたという。


Teishi_03
陽差しが奥まで入らないので見にくいが、壁には掘削した作業員の名前だろうか、「菅原邦夫」、「岩本博」などの人名が読み取れた。


Teishi_04
さらに歩を進め、岬の突端を廻ると隣にはプライベートビーチのような白い砂浜。
しかしこの奥にも「震洋」の基地は掘られていた。
満潮になるとこの浜には船でしか行けないので、ちゃんと干潮の時間を確認して探索しているのだ。


Teishi_05
こちらの穴は崩れやすかったのだろう、入口の内側部分がコンクリートで巻立てられ補強されていた。
そして中には廃車ならぬ小型の廃ボートが一艘。
まるで侵入者を阻むように打ち棄てられていた。


Teishi_06
ボートの舳先の先を見ると壁に「飛練 四十期 轟沈 昭和二十年五月」と彫り込まれた文字。
「飛練」とは「海軍飛行予科練習生」のこと。
昭和二十年といえば終戦の年だ。
残念ながらこの地で「震洋」による「轟沈」と言えるような成果は記録されていないから、これは若き練習生たちが果たしたいと願っていた希望の言葉だったんだろう。

・州ノ崎の試射場跡はこちら
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コメント

はじめまして。
突然のご連絡失礼致します。

私、実業之日本社の大竹と申します。
この度、「静岡県の地理・地名」に関する本を制作することになりました。
そこで、御ブログに掲載されているお写真をお借りしたいと思いまして、ご連絡さし上げました。
お借りしたい画像は以下の記事のものです。
日付:2013年3月25日
画像:キティちゃん寺(東光禅寺)外観

下記に連絡先を記載しておきますので、お返事をいただければと思います。
なお、大変急なお願いで誠に恐縮なのですが、7月30日(水)までにお返事をお願いします。

何卒、よろしくお願いします。

*******************
大竹朝美
*******************

投稿: 大竹 | 2014.07.29 18:16

大竹さま
ご連絡ありがとうございます。

写真転載の件、OKです。
先日の佐藤さんと同じ本ですよね。
高画質の元画像をメールでお送りします。
なお、また連絡先が書いてあったので、その部分を削除しました。
ご了解ください。

ピーちゃんの身元引受人

投稿: ピーちゃんの身元引受人 | 2014.07.30 04:58

はじめまして。第49震洋隊員の孫です。祖父は東京の下町で育ち当時お給料もよく白米も食べさせてもらえた少年特攻隊員に志願兵として入隊し2年間茨城の土浦で想像を絶する訓練をしてゼロ戦に乗る訓練を受けた者です。終戦近くなり雷神に変更になり2度の特攻を試みましたが奇跡的に生還し、記載されている菅原さんや岩本さんも生還され80代後半までの人生を全うされ、生涯の親友でした。当時16歳で国に命を捧げるために訓練をしてきた少年兵の友情は固く私もたくさんお世話になったのです。
今回の記事を拝見して祖父が連れて行ってくれた下田にもう一度行ってみたくなりました。涙が止まりませんでした。後世にも残していきたい記録ですね。祖父は自伝も描いておりますのでご興味のある方はご連絡ください。壮絶な体験談が書かれております。

投稿: とみ | 2021.11.21 23:08

とみさん

はじめまして。
今回は貴重なお話しをありがとうございました。
戦争遺構は大切に語り継いでいかないとなりませんね。

投稿: ピーちゃんの身元引受人 | 2021.11.22 00:56

お返事ありがとうございました。正しい部隊名は「第一特攻隊員 第一六突撃隊 第五一震洋隊」でした。総員200名(第19、20予科連卒業生の中から第一飛行兵に選ばれた者)、うち特攻兵は50名の18-19歳の予科連生でした。祖父の記録によると23名が玉音放送前後に爆破したそうです。

岩に刻まれた名前の四人は 祖父の大親友だった菅原邦夫さん(この方は生き残り祖父と共に戦後英会話教室に通い今の自衛隊の第一通訳として活躍されました)、岩本博さん、稲葉岩雄さん、杉原一人さんです。部隊の中でもさらに出撃に備えて準備していたのが12人、4人毎にグループで出撃しました。彼らはニ小隊の四人で私の祖父は一小隊におりました。

何方か予科連やそれを生き延びた方、研究者の方に是非読んで頂きたい内容がたくさんあります。この記事を拝見して16歳の私をアメリカに一人で留学させた祖父がどんな心境だったのか、考えさせられました。たびたび失礼いたしました。

投稿: とみ | 2021.11.23 06:06

とみさん

改めまして
貴重なお話しをありがとうございました。

投稿: ピーちゃんの身元引受人 | 2021.11.23 09:29

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