落橋したボルチモア橋
アメリカのボルチモアで大きな落橋事故が発生したね。
コントロールを失ったシンガポールのコンテナ船が橋桁に衝突したそうだ。
ボルチモア・トラスと呼ばれるこうした鉄骨製三角構造の橋はいかにもアメリカらしい。
日本にも昔輸入したこのボルチモアの橋があるよね。
僕が見たのは福島のこの鉄橋だけど。
僕のカラオケの十八番(おはこ)である恵比寿のアメリカ橋も仲間なんだろう。
壊れた鉄橋、早く撤去ーしてね。
アメリカのボルチモアで大きな落橋事故が発生したね。
コントロールを失ったシンガポールのコンテナ船が橋桁に衝突したそうだ。
ボルチモア・トラスと呼ばれるこうした鉄骨製三角構造の橋はいかにもアメリカらしい。
日本にも昔輸入したこのボルチモアの橋があるよね。
僕が見たのは福島のこの鉄橋だけど。
僕のカラオケの十八番(おはこ)である恵比寿のアメリカ橋も仲間なんだろう。
壊れた鉄橋、早く撤去ーしてね。
かつては各地に多く存在したという『木造トラス橋』
しかし木製という性格上、現存する大型のものはほとんどないという。
ところが群馬県内にまだ一つ残っているものがあった。
しかも、国道に使われていたという由緒あるものだ。
朽ちてしまう前に、これは観ておかねば……。
という訳でやって来たここは、群馬県の下仁田町の外れ、ほぼ長野県に近い山の中。
舗装もだいぶ傷んだこの道は、この記事の場所をさらに進んだところ。。
つまりこの道は旧・川越街道(国道254号)ということになる。
ただし平成元年(1989年)に新道ができたので、今はもうこの道は使われていない。
右上の高い所に見える新道は山をトンネルで抜けていて、両者の高度差はこの段階ですでに70m以上もある。
緩くカーブした赤い橋は『落合橋』という鋼鉄製の橋で、銘板によれば昭和39年(1964年)に完成したもの。
わずか約25年使われただけで、上の新道にそのポジションを譲ったことになる。
『落合橋』から隣を覗くと、ほら藪にまみれた木製のトラス橋『旧落合橋』が見えてきた。
トラスというのは三角構造のことね。
クリックすると拡大します
いったん橋を渡り、袂から崩れやすい路盤を慎重に20mほど下の沢まで降りてきた。
橋が越えているのは市ノ萱川の支流である西高畠沢という谷で、やがて利根川となって太平洋へと流れ出る。
下から見上げると、橋はこんなに高い。
中央の赤いのが平成になるまで使われてきた『落合橋』でその隣が『旧落合橋』だ。
さらにガレ場を越えて『旧落合橋』の真下までに来た。
橋脚は1本もなく、両側の橋台から幅30mほどの谷をひと跨ぎしている。
橋の形式は、たぶん『木造・上路ダブルワーレントラス』というものになる。
廃止になってからでもすでに50年以上経っているのに、下から見ると木製の骨組みはまだしっかりしていそうに感じられる。
見上げ続けて首が疲れたので、再び上まで戻った、今度は沢の反対側。
かつてクルマが往来した筈の路面は、上から見ると草木や樹木に覆われ、一見してこれが橋の上とは思えない様相。
ちょっと見、これならなんとか渡れそう?
いえいえ、トンでもない。
恐る恐る足を踏み入れてみると、すぐに足元がスカスカになる。
危ない箇所が落ち葉でうまく隠されていたんだね。
これは駄目だ。
危ない、危ない。
かつては覆っていたであろう底板はすっかり朽ちていて、隙間から覗いてみれば下の沢が丸見えだ。
これだけ落ちたら危ない。
それにしても骨組み自体はほんとうにしっかりしているのに感心させられる。
再び橋の上を渡って沢の反対側に戻ってきた。
ああ、トラスの上には本来こんなしっかりした角材が敷き詰められていたんだね。
もっとも、でなければトラックの車重に耐えられまい。
なんせ木製とはいえ、これでも国道を支える橋だったんだから。
斜め横から橋を観察してみると、立派なそのトラス構造が見て取れる。
上弦材と下弦材との間には縦横に渡したトラスの所以である斜材。
さらに上下を結ぶ鉄棒の吊り具が追加されているのがわかる。
これでさらに強度を増していた訳か。
しっかりした仕事していたんだな、木製トラス。
長い間、ご苦労であった。
褒美をとらす。
現場で撮影したよくわかる動画はこちら
↓
・伊豆・廃ループ橋跡はこちら。
・旧稲又川橋跡はこちら。
・君津・廃橋跡はこちら。
・中央線遺構・立場川橋はこちら。
・ねずみの歩道橋はこちら。
・崩壊橋梁・祭畤大橋はこちら。
・破壊橋梁・旧柴崎橋はこちら。
・崩落橋梁・旧鹿行大橋はこちら。
・白根のループ橋はこちら。
・笹子の笹子川橋台はこちら。
・小山の森村橋はこちら。
・長泉の石橋アーチ橋はこちら。
・西会津の奥川橋はこちら。
・小山の森村橋はこちら。
・巨大アーチの東名・皆瀬川橋はこちら。
・木造トラスが残る旧落合橋はこちら。
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小田原から御殿場を経て沼津を結ぶ御殿場線は、かつて東海道本線だったので堂々の複線を誇っていた。
でも丹那トンネルが開通すると単線に格下げされたので今も各所にその頃の面影が残っている。
これは山北駅先の「箱根第二号トンネル」
右側が現行線で、左は旧線の跡。
これは酒匂川を渡る、その名も「第二酒匂川陸橋」
近くには行けないので遠景だけど、橋桁がもう1車線分残されているのがわかる。
「箱根第一号トンネル」
一番上の写真とそっくりだけど、別物だからね。
これは谷峨駅近くに残されたガーダー(鉄橋)桁の跡。
撤去しないんだね。
これはもう裾野駅を過ぎたところにあるレンガ橋台の跡。
旧線の跡がまるでグリーンベルトのように残ったままだ。
「複線化」というのは鉄道にとって名誉なこと。
でも、逆に複線だったのが単線にされるたいうのはなんかわびしいものだね。
・未成の国鉄佐久間線はこちら。
・三重の中勢鉄道はこちら。
・近鉄大阪線の東青山駅はこちら。
・中央線遺構・旧笹子川橋台はこちら。
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国道49号は昔、越後街道と呼ばれた道。
難所・藤峠はいま藤トンネルで難なく抜ける。
すると昔「別茶屋(わかれちゃや)」があった道の分岐点に旧い橋脚が残されているのが見える。
ここで不動川支流の切石川を渡るのだが、現在は暗渠になっていて水はない。
しかし旧道はこの切石川を橋で越えていた。
そのコンクリート製の橋脚が2本、蔦に絡まれて今も残ってるのだ。
竣功は大正5年(1916年)と言われているが、当時は木橋だったらしい。
すでに100年を経過しているとあって、橋脚は風化が激しい。
・伊豆・廃ループ橋跡はこちら。
・旧稲又川橋跡はこちら。
・君津・廃橋跡はこちら。
・崩壊橋梁・祭畤大橋はこちら。
・破壊橋梁・旧柴崎橋はこちら。
・秩父の廃吊橋はこちら。
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奥川森林鉄道跡【前編】から続く。
古びたコンクリート製の橋脚には長円形の穴が明けられているのでそこにカメラを差し入れて撮影してみた。
そこからの景色はこんなアートな風景。
クリックすると拡大します
これは反対側の沢上部に登って撮影したもの。
川の流れが勢いよく白いのは、滝ではなく取水堰から絞って落とされたため。
左手の崖には降下に使ったロープが見える。
この画角がこの遺構の一番良い表情かも。
上から見降ろすと、橋脚の上部には鉄製のスタッド(埋め込みボルト)が残されていた。
頼りなさそうなボルトだが、これで橋梁を固定していたんだろう。
その長さから推定すると、おそらく渡された橋梁は木製だったのではないか。
赤錆びた表情が、廃止されてからの長い年月を物語る。
沢の下側に回って見上げるとこんな感じ。
当時は場違いだったろうコンクリート製の人工物も、色褪せた今は不思議に溶け込んでいる。
これまたいい風景だね。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
柱の一本には『昭和弐年十月竣功と、ペンキで記されている。
すると完成からもう90年。
しっかりしているようだが、よく見ると橋脚のコンクリートにはかなりの傷みが見てとれる。
コンクリートの寿命も100年というから、これらもそのうち崩れ落ちてしまうのだろうか。
【鉄道自体の開通は大正元年(1912年)と記録されているので、記された竣功時期が事実であるならこの沢は当初木橋で渡っていたものと思われる】
静かに、そしていつまでも残って欲しい遺構だった。
・秩父・滝川森林鉄道跡はこちら。
・小海・渋森林鉄道跡はこちら。
現場で撮影したよくわかる動画はこちら
↓
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福島県西会津町の山中に残された『奥川森林鉄道』の跡を訪ねた。
奥川は、福島県に源流を持ち新潟県を流れ日本海に注ぐ阿賀川の支流。
その流れに沿って大正元年に開通したのが奥川森林鉄道。
石塚森林鉄道 (C)「森林鉄道情景」
明治から昭和に掛け、山奥で切り出した材木を運び出すために、各所にこうした森林鉄道が作られたんだね。
すでに廃道となった国道459号の旧道から奥川の方を見降ろすと、何やら構築物が。
森林鉄道の橋台だ。
橋台とは鉄道の橋脚を渡すための土台部分。
間違いない、奥川森林鉄道があそこを走っていたのだ。
降りられそうなところを見つけ、急な崖を下る。
すると現れた軌道跡。(石積みの右手上部)
崩落した部分も多いけれど、一部にはまだこれだけ良好な軌道跡が残されているんだね。
苔むした石垣は軌道の路盤を支えるもの。
山中にこれだけしっかり残っているのは感慨深い。
でもちょっと進めばこの通り。
まるで通行止めを宣告するような枯れ木の芸術。
森林鉄道が廃止となったのは昭和35年(1960年)のことだから、誰も通らなくなってもう60年近くの時間が経過しているものな。
廃止になった森林鉄道跡ではたいていこうした倒木が邪魔をする。
そこを歩く困難さは、静岡のここや、埼玉のここなんかと同様だ。
足元のはるか下、奥川の流れはこんな感じ。
北国のこと故、この時期は雪解け水で水量が多い。
冷たいだろうし、なるべく落ちたくはない。
写真右手の、樹々の色が違った辺りに目的のものがある。
もう少しだ。
クリックすると拡大します
東北電力の取水堰を見送り、さらに進むと再び路盤跡が荒れて来た。
すると突然目の前の路盤がなくなり、飛び込んで来たのがこの衝撃的な光景だ。
小さな沢を鉄道が越えるためなんだろう、苔むした見事な橋脚が並んでいる。
なんとカーブした4連だ、素晴らしい。
奥川森林鉄道跡【後編】に続く。
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ここは静岡県駿東郡の長泉町というところ。
三島市と沼津市の間にあって目立たないが、東レなど大きな工場が多い町。
その一角、新しい大きなマンションの前にちょっとそぐわない古めかしい石橋がある。
下を流れているのはあの狩野川の支流である横瀬川のそのまた支流。
1896年(明治29年)に架けられた『谷口橋』というアーチ橋だ。
残念ながら周囲の状況が変わってしまい、渡っても今は行き止まりだ。
橋の長さ3.9m、橋の幅が2.8m。
3条になっていて、要するに三つのアーチが一つに合わさっているような感じ。
アーチ橋というのは普通テッペンの部分(赤矢印)に要石という大きめの石を嵌め込んで仕上げるものだけど、ここではそこに頼りない薄っぺらい石があるだけ。
もしかして計算違いだったのかな。
そんな、素人っぽいところが逆に親しみ深くていい。
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静岡県の小山町といえば、富士スピードウェイがある町……
ではなくって、富士紡績という日本有数の紡績会社があった企業城下町。
これは東海道線(現在は御殿場線)の駿河小山駅から、富士紡績小山工場まで引かれていたトロッコ線路の一部だった『森村橋』だ。
線路跡はもう窺い知れない。
なお森村というのは富士紡績の創業当時尽力した森村グループ創始者の名前に由来しているそうだ。
全長39mで、1906年(明治39年)の完成。
下路曲弦プラットトラスという形態で、日本人が設計・施工した黎明期の鉄骨トラス橋として国の有形文化財に指定されているが、錆が目立つなど保存状態はあまり良くない。
橋の下を覗いてみると、レンガ造りの橋台が見える。
黒レンガで彩りを添えるなど、明治の人のハイセンスが窺い知れるね。
・新城市の黄柳橋はこちら。
・秩父の廃吊橋はこちら。
・勝沼のめがね橋はこちら。
・笹子の笹子川橋台はこちら。
・修善寺の高橋橋はこちら。
・早川町の保2号桟道橋はこちら。
・東名の皆瀬川橋はこちら。
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見よ!
このみごとなアーチ橋の競演を。
これは神奈川県山北町にある、皆瀬川橋。
3本も並んでいるが、すべて東名高速道路のもの。
この部分にまだ新東名(第2東名)は建設されていない。
横から見ると、こんな感じ。壮観だね。
1969年(昭和44年)の完成。
当時は上りと下りの2本だったが、1990年に拡幅工事に伴い下り線が右ルートと左ルートに分けられたため1本追加。
それで同じ形式の橋が3本も並ぶことになったんだね。
ちなみに橋の形式はすべて補強材が縦に並んだ『上路式逆ローゼ橋』というもの。
しかも3本すべてがトンネルを出てすぐに橋というシチュエーション。
素人考えだけど、こういう条件も建設をかなり難しいものにしているんだろう。
上を通っていると意識しないけれど。
反対側は橋の土台部分まで行けるので探索してみた。
あれだけの巨大な橋も、土台の取付は1本(3本だけど)のピンに頼っているんだね。
しかも3個とも、取り付けは水平でなく微妙に傾けられているのがわかるかな。
この角度ならわかるでしょ。
右のと左のとが対称になってないものね。
どういう必然があるのか、こんな所でも難しい工事をしてるんだね。
なお建設当時、現場で振動測定をしたところ、まったく車両が通行がないにも関わらず常に橋が揺れ続けているのが観測されたそうだ。
実はここ、狭い谷間に架けられているので、谷風が強く吹き抜けるためなんだって。
大丈夫かい。
・第二東名・新富士川橋はこちら。
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