『インカ神殿』再び

今朝みたら、この記事に昨夜異常なアクセスがあったことに気づいた。
5年前に行った新潟の『持倉鉱山』跡だ。

Mochikura_13

調べたら、またテレビでやったんだね。
昨日は『世界の何だコレ!?ミステリー』という番組。
以前は『ナニコレ!珍百景』でやって、やはりアクセスが増大したことがあったっけ。

テレビ局もネタの使い回しか。
でも今はドローンで空中から観察できるからいいなあ。

ということで、この辺でドローンしまする。
Doron

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伊豆・沢田鉱山を訪ねて

南伊豆の山中にあったという『沢田鉱山』を探していた。
鉱山といっても正確には『沢田石丁場』、つまり沢田石を切り出した石丁場の跡だ。
沢田という地名は今もあるので、地形図からそれらしき道を辿ってすでに複数回探ってみた。

Sawada_08
最奥の人家を過ぎ、さらに登る。
この辺りはまだ簡易舗装がされているが、落ち葉が積もっていて最近クルマが入った形跡はない。


Sawada_01
クルマも通れない筈の道になったのに、さらに登っていくと道端にこんなポンコツ車。
以前はこんなとこまでクルマで来れたのか。


Sawada_02
道はやがて踏み跡も定かでない杣道(そまみち)に。
するとお地蔵さんのような石仏が立てられているのに気づいた。
人の営みの気配!!


Sawada_03
さらに奥の歩を進めると、石塔の群。
これはお墓に違いない。
しかしそれにしてもずいぶんな数の墓石。
こんな山奥なのに、ここにはそれなりの規模の集落があったということか。


Sawada_07
墓地の奥に上がるとまた一段と立派な石塔が周囲を睥睨していた。
周囲には二段に組まれた石垣を備え、他のお墓とは明らかな格の違いを誇っているようだ。
この集落の翁だったのかな。
(マウスを置くと画像が切り替わります)


Sawada_04
振り返った逆の方を見てさらに驚かされた。
この丸い石を立てるのって、いわゆる『卵塔』というやつだよね。
正式には『無縫塔』(むほうとう)といって、僧侶のための墓塔として使われているそうだ。
でもお坊さんのお墓だけでこんなにあるなんて、いったいここにはどれだけの集落があったというんだ。


Sawada_05
いくつか点在する平場を進んでいくと、さらなる奥手にとうとう建物が現れた。
もちろん人の気配はなく、すでに廃屋と思われるが、それほど古そうなものでもない。
少なくとも探している沢田鉱山由来のものではなさそうだ。


Sawada_06
辺りを探ると、石垣の上に車輪がその存在を訴えていた。
すわ、これはトロッコレールのものか?
でも車輪とみられる部分にフランジ(脱線を防ぐため車輪の縁に設ける出っ張り)がない。
石垣の角に車輪があるのは不自然だし、そもそもこれまでレール自体見つかっていない。
すると、これは何か林業機械の一部なのだろうか。

疑問は残るが、残念ながらこの日の探索はここまで。
山中にかなり大きな集落の跡はみられたものの、まだ鉱山の跡だったという確固たる証拠は見つけられていない。
また日を改めて調べてみる必要がありそうだ。

【続く】 かも知れない……。

・大賀茂石丁場跡はこちら

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転落注意、桧沢坑(南伊豆)

ここは南伊豆・蓮台寺近くの山にある鉱山跡。

Hinokisawa_08
『林道ヒノキ沢線』は蓮台寺から下田へと抜ける山越えの道。
あの石丁場の探索をした林道だ。


Hinokisawa_01
林道に入ると、いきなり似つかわしくないこの黄色い鎖。
吊り下げられた札は、しかし文字がかすれて読み取れない。
ただそれがこの坑道入り口の封鎖を示したものであることは容易に推察された。
(マウスを置くと画像が切り替わります)


Hinokisawa_03
この辺り一帯は蓮台寺鉱山(河津鉱山)と呼ばれ、近くに何か所も同様の鉱山があったと伝えられている。
れだけ厳重に封鎖するんだから、この近くにも坑口はあるんだろう。
怪しい匂いがするので、急な斜面を登ってみた。
金山・銀山にシダ植物は付きものだしね。


Hinokisawa_04
するとすぐに怪しげな穴がいくつも見つかった。
いずれも径は小さいが縦方向に深いので足を滑らせたらタイヘンだ。


Hinokisawa_05
この深い溝は、明らかに人工的に掘り拡げられた奥行きがある。
写真では伝わらないが、実際はかなり深い。


Hinokisawa_07
この穴は天井部が開いているので、こうして上から覗き込むことができる。

あとで調べると、この坑口の正式名称は『河津鉱山・蓮台寺鉱区・桧沢坑』(かわづこうざん・れんだいじこうく・ひのきざわこう)というもの。
古く江戸時代に発見された鉱脈で、大正初期からは日本鉱業の手で金銀銅鉱のほかマンガン鉱・テルル鉱というものを採掘したという。

現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

・山田鉱山跡はこちら
・奥沢鉱山跡はこちら
・須玉(増富)鉱山跡はこちら
・川尻鉱山跡はこちら
・梓山鉱山跡はこちら
・オイ沢鉱山跡はこちら
・大仁鉱山跡はこちら
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・持倉鉱山跡はこちら
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・峰之沢鉱山跡はこちら
・湯ヶ島鉱山跡はこちら
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伊豆大賀茂の石丁場跡【後編】

伊豆大賀茂の石丁場跡【前編】から続く。

先駆者の記事と食い違うことから、日を改めて再度伊豆大賀茂の山中の探索に来た。
前回の場所をあとにしさらに林道を上ってみる。

Oogamo_11
すると道脇に何やら、怪しげなものが。
それはこの小さな祠。
周囲に人家など見当たらない山中なのに、これは明らかに何か人の営みがあった証拠。
怪しい。
周辺を探ってみる。


Oogamo_12
するとすぐ隣に、古びた坂道がヤブに隠れているのがわかった。
驚いたことにこの道はコンクリートで舗装されているではないか。
苔や枯れ葉にすっかり隠れているけれど、ね。


Oogamo_13
やがて舗装部分も途絶えるが、さらに進むと突然山側に大きな割れ目が。
見よ、伊豆石の石丁場(石切場)入口に間違いない。
幅は狭いが、高さは建物3階分くらいあるだろう、圧倒される。


Oogamo_14
中に進むと、内部はさらなる広がりをみせていた。
構造は複雑で、まるでトルコ辺りの神殿か地下住居のよう。


Oogamo_15
例によってギリギリまで計算されて掘り尽くされているので、見た目は心許ない。
こんなに薄い床で、2階は大丈夫なの?


Oogamo_16
外部の光が届かない奥部では、持参したヘッデンが頼り。
そんな時、こんなものが天井からぶら下がっていたら、誰だってコウモリさんだと思うだろ。
あー、ビビッた。
ただの黒い布きれだった。


Oogamo_17
そしてついにたどり着いた廃車群。
これだよ、先人の写真に写っていたのは。
ただ「ジープ」とあったのは誤りで、2台はいずれも軽トラックの残骸だ。
特徴ある縦四つ目のヘッドランプは、ホンダのTN-7。
もう1台はすっかり朽ちてしまっているが、こちらはリヤエンジンなのでスバルか。
いずれももう40年ほどは経っていることだろう。
雨風が凌げるだけ幸せだよね。

(マウスを置くと画像が切り替わります)


Oogamo_19
内部の探索を終え、再び入口に戻ってきた。
やっぱり太陽の光は心強い。
無料(タダ)でみせてくれて、ありがとうね。

現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

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伊豆大賀茂の石丁場跡【前編】

伊豆半島の南部は、いわゆる伊豆石を切り出した石切場(石丁場)が多いところだが、山ごと個人の所有というケースが多く、中には入場料を取ってみせている所があるのは興醒めだ。
自分がそういう所に行くことはない。
お金が惜しい訳じゃない。
ポリシーなのだ。

下田では以前、敷根山の石丁場跡を探索したが、北部の大賀茂にも規模の大きいものを探索したという記事をみつけた。
これまで伝えられていない所だったので、わずかな情報を頼りに山の中に出掛けた。
しかし具体的な場所の記述もなく、探し当てるのに結構苦労した。

Oogamo_01
そして見つけたのがこれだ。
場所は大賀茂から蓮台寺に抜ける林道の脇。
海に面した下田だが、山道を登ったここは標高230mほど。
寒くなってもこれだから、夏場では深い緑に覆われて見つけられなかったことだろう。


Oogamo_02
ヤブを掻き分ければ、入口は案外広い。


Oogamo_03
四角く切り込まれて入口は各所にある。


Oogamo_04
切り取るにはちゃんと職人の経験に基づいた、強度を見極めた法則があるのだろう。


Oogamo_05
内部は複雑で、わかりにくい。
ただ乾燥しているので歩くのには問題はなかった。


Oogamo_06
内部から入口を振り返るとこんな感じ。
上からぶら下がって見えるのは隙間に伸びた雑草で、コウモリさんではない。

帰ってから撮影した写真を見ていて気が付いた。
うん?
先駆者の記事には、廃車があったと書いてある。
しかしそんなものはここにはなかった。
ということは……
探していた石丁場跡はここではないということになる。
これは、もう一度探索に行かなくては。

もっと凄い伊豆大賀茂の石丁場跡【後編】に続く。

現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

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偉いのは『カミオカンデ』?

前日の医学賞に続き、今度は梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞したそうな。
受賞理由は「素粒子ニュートリノに質量があることを発見した」というもの。
そうだよな、僕もそう思ってたんだ。

Kamiokandeで、これは2002年にやはりノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏に次ぐもの。
いずれも岐阜県にある神岡鉱山跡に造られたカミオカンデ及びスーパーカミオカンデを舞台に研究した成果なんだという。
ほら、やっぱり鉱山跡は大切にしなくっちゃ。

で、驚くことに小柴さんは受賞当時、「近いうちにまたここでの研究からノーベル賞受賞者が出る」と予告していたんだね。
それがみごと的中したことになる。
凄いね。
でも、ということは偉いのは学者じゃなくってカミオカンデということ ?(゚_。)?(。_゚)?

ふむ、僕も紙を噛んでみよ。

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茂倉鉱山(早川町)【後編】

茂倉鉱山(早川町)【前編】から続く。

Mogura_07
茶色い水をたたえたかつての坑口の脇には、古びたトラロープが上方に向けて設置されていた。
なんだ、これを見つけて辿ってくれば簡単に斜面上部からここまで来れたんじゃん。
近くの樹にリボンでもあればすぐに気が付くのに……。
とはいえ、これでひと安心。
まさに「虎の子」のトラロープを頼りに逆に登り返すと、やはりちゃんと目的の平場にたどり着くことができた。
しかし周囲はどちらを向いても崖。
こんな急な斜面の中に、よくこれだけの平地を造り出したものだ。


Mogura_08
平地の少し下方には、今も小さな小屋が残されていた。
この1棟だけが残されていたのは、唯一石造りだったからだろうか。
四方の壁をブロック様のもので積み上げた一方、屋根は簡素な木製という造り。
これは火薬庫とのこと。
もう特徴から察しはついていたけれどね。


Mogura_09
この平場には作業場の他に宿舎まであったということで、周囲の土手は石垣で頑丈に整えられていた。
それでも閉山後、竹に侵食されているようだ。
そう、廃屋を乗っ取るのは、いつも竹
一方、インクラインがあったという話もあるが、顕著な痕跡を見つけることはできなかった。


Mogura_10
電線を通したのだろうか、きれいな碍子が埋め込まれたままの壁が転がっている。
みごとに育った美しい苔が、まるで本来そうであったかのように化粧を整えていた。


Mogura_11
さらにその片隅には二つ並んだ竃(かまど)の残骸。
戦時中の物がない時期に、こんな山の奥で何を煮炊きしていたんだろう。
これも使われなくなった年月の重みを緑の苔が主張しているようだ


Mogura_12
お世話になったトラロープ。
上まで登り返してよく見たら、肝心の端っこはもう編み目がむしれて黒の一本だけになっているではないか。
くわばら くわばら (古っ)
こんなものを信じて体重を預けていたなんて……

【お終い】

なお茂倉鉱山にはこの前山の他にもう一つ後山と呼ばれる別の鉱山もあったと記録されている。
またArakura_s新倉・集落から登るのかな。
資料がなくて場所を特定できていないが、いつか訪ねてみたいものだ。

・持倉鉱山跡はこちら
・峰之沢鉱山跡はこちら
・湯ヶ島鉱山跡はこちら
・持越鉱山跡はこちら
・寝姿山鉱山跡はこちら
・矢筈山鉱山跡はこちら
・縄地鉱山跡はこちら
・大賀茂鉱山跡はこちら
・河津鉱山桧沢坑跡はこちら

現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

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茂倉鉱山(早川町)【前編】

山梨県早川町の辺りは鉱山跡が多いところ。
奥沢金山など武田黄金伝説が残るものもあるが、ここ茂倉(もぐら)鉱山は残念ながら金を産出した訳ではない。

戦争の槌音が間近となった1938年(昭和13年)頃、経済封鎖による資源不足を解決する策としてこの山から主に石膏石を産出するため拓かれたという。
石膏?
たかが石膏というなかれ。
石膏と聞いてすぐイメージできるのは建築資材くらいだが、他に医薬品や化粧用、さらに身近なところではお豆腐の製造なんかにも使われる、生活に密接した大事な原料なのだそうだ。
しかし、そもそも鉱山の生産性が低かったんだろう、終戦と共にここ茂倉鉱山は閉山となってしまったという。

Mogura_01

県道沿いのArakura_s新倉・集落から急な山道を登ること4キロ。
標高1000mに近い山肌に茂倉の集落はある。
言わずと知れた限界集落だ。
だいたい名前がモグラなのにこんなに高いなんて。

その途中、林道脇から急傾斜を降りて行く。
ほどなく辿っていたわずかな手掛かりの木樵道も消失した。
地形図から予想はついていたが、実際、傾斜はかなりのもの。
(振り返って撮影)


Mogura_02
すると樹に絡げられた1本のワイヤーが目に留まった。
結構古いもので、辺りに木材を切り出したような痕跡もないから、これはもしかして昔の鉱山関連のものなのか?
いずれにせよ、迷った時にこうした人工物を見つけると勇気百倍になる。


Mogura_03
ワイヤーに沿ってさらに下ってみた。
すると、大きな岩肌にやけに不自然に平らな石の表面。
すっかり苔むしているが、これはもしやコンクリート?
かつての鉱山坑口を人工的に塞いだものではないのか。


Mogura_04
そこで周辺を探ると、ついにここが鉱山であったことを証明するものが落ち葉の積もる足元から見つけた。
それはトロッコに使われたのであろう、レールの残骸。
しかしこんな急傾斜の山肌にトロッコって、ほんとうに使えたのだろうか。


Mogura_05
さらに転がるように傾斜を下っていくと、ついに沢まで着いてしまった。
いかん、計算が違う。
下調べでは、目的の鉱山跡の平場は沢よりも20mは上の筈。
沢まで下ってしまっては行き過ぎだ。
やはりルートを間違えたことで、目的より降りきってしまったようだ。
見渡すと沢床には古びた2本の鉄製水管。
ナニコレ?
管からはきれいな沢には不似合いの不気味な茶色い水が流れ出ていた。


Mogura_06
今度はこの半ば埋もれた水管に沿って斜面を登り返すことにした。
するとそこには斜面に隠れるように、やはり茶色く濁った水をたたえた坑口が潜んでいた。
ここで算出していたのは石膏石なんだから、まさかここみたいに鉱毒はないと思うが。
茶色い色はただの鉄サビと思いたい。

茂倉鉱山(早川町)【後編】に続く。

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縄地金山3【大名坑編】

縄地金山2【鉱山跡編】から続く。

ところでこの縄地金山を開いたのは江戸幕府の金山奉行・大久保長安だと伝えられている。
その屋敷跡が残されているというので寄ってみる。

Nawaji_21
この『地福院』というお寺さんの一角に屋敷はあったという。
この石段の上だ。
標高は80mほどだが、海に近い縄地の集落からはかなりの高台ということになる。


Nawaji_22
お寺さんよりも広い、このサッカー場のような芝地が屋敷跡。
今はモダンな地域の公民館が建てられているが、よく見ると周囲には古い石垣が巡らされていて、確かに歴史を感じさせる。
ここから山肌に位置する支配下の鉱山を眺めるのが長安の日課だったという。
(その後江戸幕府の老中まで上り詰めた長安だが、金の枯渇と共に死後不正蓄財の罪で断罪、7人の子息は全員処刑という運命を辿っている)


Nawaji_23
屋敷跡から狭い山道を迂回して再び登り、山際のこんな広場にやって来た。
ここから正面のヤブに侵入する。


Nawaji_24
すると木陰から現れた、暗い穴。
これが縄地金山の坑口でも最大だったという『大名坑』と呼ばれるものだ。
金山を視察に来た大名が、馬に乗ったまま入れたという逸話から名付けられたという。


Nawaji_25
今は入口に大量の土砂があり、内部は水没してしまっているが、確かにかなりの広さ、高さがあったことが窺われ、馬に乗ったままというのもあながち作り話のホラではないようだ。

【お終い】

現場で撮影したよくわかる動画はこちら
                

・持倉鉱山跡はこちら
・倉沢鉱山跡はこちら
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縄地金山2【鉱山跡編】

縄地金山1【積み出し港編】から続く。

急な傾斜径をだいぶ登ってきた。

Nawaji_11
(振り返って撮影)
向かって左手は荒れ地だが、右手には広いミカン畑が連なっている。
そのミカン畑の間を分け入っていく。
春で良かった。
シーズンならミカン泥棒に間違われかねない。


Nawaji_12
すると突然開けた場所に飛び出した。
写真に写っているのはホンの一部で、実際はかなりの広さに渡っている。


Nawaji_13
敷地には電気の碍子やレンガなどさまざまな鉱山由来の物が落ちている。
以前はトロッコの車輪もあったということだが、遅かりし。
訪問時にはすでに撤去されていた。
逆向きだが、このレンガには『SHINAGAWA』の文字が読み取れた。
後で調べるとこれは東京に本社を置く耐火レンガや不定形耐火物の会社『品川リフラクトリーズ』という所の刻印であることがわかった。


Nawaji_14
いくつもの建物の土台は残っていたが、現存していたのはこのひと棟だけ。
内部に生活臭はなくガランとしていて、倉庫として使われていたようだ。
なお現在、鉱山の所有者は『土肥マリン観光』という会社。
一見、鉱山とは関係ないように感じるが、親会社が『三菱マテリアル』だと聞けば納得がいく。


Nawaji_15
これは何やら機械を据え付けていたような土台。
掘り出した鉱石はこの地である程度破砕していたとのことなので、そのための機械だったかも知れない。


Nawaji_16
そしてここでの最大の目玉はこの坑口。
いまはブロックで厳重に塞がれているが、これをみればここがかつて鉱山だったことに疑いはない。
閉山は1973年とのこと、入口部の黄色い岩肌には金鉱石が混じっているとの噂。
削ってみる?

縄地金山【大名坑編】に続く。

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